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5秒を味わう

大島真寿美さんの小説『香港の甘い豆腐』を再読。

17歳の「私」は、母と二人暮らし。
人づきあいが下手なのも、自分に自信が持てないのも、夢も希望も持っていないのも、生まれてからずっと父親がいないせいだと思っている。

しだいに学校もサボるようになり、母に咎められて思わず言った言葉「どうせ父親も知らない私ですから」に反応した母に、父親に会わせてやると、突然香港へ連れてこられる。

飛行機の中で母が懐かしいかと聞くので、初めて行くのにそんなわけがない、と言うと、母は「遺伝子に町の記憶は入ってないのね」と。
父親は日本人じゃないかもしれない?!

わあわあわあと怒鳴るようにうるさい言葉、優しいけれど他人を慮ることもない率直な付き合い、美味しい食べ物にきらびやかな景色、そして父との対面。
母とその友人たちに囲まれた暮らしの中で「私」は、ここはどこだろう?なんでここにいるんだろう?と自分に問い続ける…
という、あらすじ。(長い)



自分が今どこにいるのかなんて。
そんなものに答えはきっと出ないのだろう。いつまでも出ないのだろう。
人は何かに馴染んでは何かを諦め、日々の中で孤独さえ心地よくなっていって。あやふやな決意とありきたりな責任に何もかもが呑み込まれて埋もれていく。

でも、瞬間の重なる日々に、あの時たしかに自分はそこにいたと思える時間があれば(思うに、それは短ければ短いほど強烈で)、それだけで、きっととても幸福なことなのだ。
そう思えたということが全てで、何もなかったその場所に、世界が初めて構築される。

人生ってそうした記憶と時間の積み重ねでしかない。
記憶なんて幻想だし、現実だってそんなものだ。
ある物理学では目に見える存在だって「無」で、ただエネルギーがあるだけということになっている。
あるいは大きな広い宇宙から見れば、ある一つの星の、ある一地点で、誰が生まれて消えていったかなんて、たぶん5秒も覚えていられないような些細な出来事で、時間だってそもそも歪んでいる。

私たちは、自分の作った幻想の世界で一喜一憂している可愛らしい生き物。
なんて運がいいんだろう!と喜び、そのすぐ後には、うわあドン底だ!と絶望する。
ならばその全てを味わえばいい。宇宙の中の小さな一つの星の、ある一地点で息をしているらしい私たちは、日々味わえる全てに巻き込まれて生きればいい。

意味なんてない。使命なんてない。目の前に繰り広げられる世界に翻弄されるだけで、たった5秒の人生なんて精一杯だ。
息切れしながら時々思いだす。「あの時たしかに私はそこにいた」と。
そして、きっと未来の私は香港で甘い豆腐を食べている。



この本を閉じた時、きっと誰もが今の自分を思い、今までの幸福を数え出すに違いない。
幻想の世界、幻想の自分、幻想の幸福かもしれないけれど、それはたしかにそこにあったのだ。自分がそう思えるなら。

17歳の娘との二人暮らしは実際、今の私にとっても現実であるわけだけれど。偶然に。
それを心で確かめた時、
今まで消えていた壁掛け時計の秒針の音が、ゆうらりと空気をかき混ぜて耳まで届いた。
針の音を5つ数えながら、精一杯の幻想を味わう。


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