想定外を生きる
Facebookのお知らせがスマホに毎日来て、
過去の自分の投稿をもう一度見せてくれる。
今日現れたのは5年前の投稿。
小説を読んで思ったことは、だいたいFacebookに書き残してきた。
以下カギカッコが、5年前の今日、私が書いたもの。
「島本理生さんの新刊『イノセント』読了。
この作家の書くものは、
スルッと読めば読めてしまうんだけれど
深く読もうとすると果てしなく深く読める。
果敢に人生に挑むように、
その片隅の出来事を書いてる気がする。
恋愛とは。たとえば。
それのために、
持ってるもの全てを捨てられるものである。
人生も運命も変えてしまう。
躊躇があるなら、それはきっと恋ではない?
窓から床に落ちてくる光を見ながら考える。
恋愛などに限らず、
生きていくことのすべての場面で勇気が必要なのだ。自分自身に対しての。
自分自身のための。
曖昧な納得の上には相応の生と記憶しか残らない。
島本さんに会ってみたい。」
このとき私が何を考えていたかは、もう定かではなくなっている。
5年経って今読んでいる本は『天気が良ければ訪ねて行きます』なので、
私という人間はどう変わっただろうか。
尖りがずいぶん無くなったのが、読む本で分かるような分からないような。。
私はあらゆるところで「小説を読もう」「映画を観よう」と言ってるけれど、
こういう表現芸術は、きちんと世界観がありつつ、一種のデフォルメだと思っているからだ。
こういうふうに生まれて
こういう道をたどり
こんなふうに考えて生きた時に
こんな出来事が起こった。
それは、何かの拍子にボタンが掛け違われただけで、
もしかしたら自分の身に降りかかったかもしれないこと。
小説とは違う現実が今目の前にあるとしたら、
小説の中にあることは、もう一つの自分の人生だったかもしれないもの。
そこから何を掴めるだろう。
他人の人生と自分を比べて落ち込むなんてナンセンスで、
他人の人生は自分の人生とも言える。
自分の人生は他人の人生でもある。
みんな、ただ繋がっている、というより
みんな同じものとして繋がっている。
そこらじゅうに、選ばなかった自分の人生が散らばっているだけ。
なんだかパラドックスみたい?哲学みたい?
一定の境遇の中で、自分がどう考え、どういう気分をつくって、何を選択し、どう決心し、行動するか。
それは自分自身の問題。
要因や条件はいろいろあって、
運命や出来事はさまざまで、
まるで小説の中のように毎日は進んでいくけれど
それをどうにでもできるのが自分自身。
自分だけが、どうにでもしていける。
「曖昧な納得の上には相応の生と記憶しか残らない」
自分に納得をさせるのは自分であり、
納得とはすなわち、決心だと思う。
「生かされている」のではなく「自分で生きる」。
それもすべて決心の上にある。
ときに決心に勇気が必要なら、振りしぼること。
やるべきことをやる。
やめるべきことをやめる。
選択のための目を持つ。
自分に優しくするとは、そういうこと。
つど心を決めながら、想定外の人生を自分で生きること。
そう、サクサク生きること。
何のためにこの世に生まれてきたかなんて、
ただ生き切るため、としか言えない。
選ばなかった人生の道は
小説の中や、周りの他人の人生の中にある。
そして、そこにあるのも
たぶん同じように想定外の人生だ。
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