どこかで息をする者たち
海の穴に棲んでいるものが、ときどき人間になって陸にあがってきては、誰かを選んで海の中に連れていく、という物語を読んだことがある。
海の穴の世界へ。
とても静かな物語の中で、選ばれた女のひとは言う。
「そうねえ、行っちゃってもいいわねえ...」
もうタイトルも著者も分からなくなって、検索することもできない。
そんな本がとてもたくさんあって、私の中には、そこを知っているのに永遠に辿り着けない土地の思い出みたいなものが、混沌としている。
どこかで生きている物語。
どこかで息をしている者たち。
頭の中には地図さえあり、たくさんの街の曲がり角の景色や、吹いてくる風の匂いまで「知って」いるのに。
夢の中でデジャヴを覚えるような、そうした自分自身の存在の不確かさに揺らぐと同時に、なぜか安堵する瞬間がある。
「在らねばならない」という、この世界の掟のようなものから、究極に自由になりたいのかもしれない。
突然、海が見たくなって。
私も穴の先へ、という気分にさえなって、家から歩いてすぐの浜へ。
すっかり色の変わった秋の夕方の水たちを見ていたら、やっぱり「そうねえ」って呟いてみたくなるのだった。
混沌を、正さなければいけないと思ったことはない。
何が現実か、何が真実かなんて、どうせ分かったものじゃないのだから。
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