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2020年の「そうじゃねえだろ」

M-1グランプリの決勝進出組が発表された。個人的に気になったのは東京ホテイソンの存在である。95年生まれのたけると94年生まれのショーゴは、92年生まれの僕にとって初めてとなる年下のファイナリストだ(霜降り明星・粗品は93年生まれだが早生まれの同学年ということで、僕の中では同い年扱い)。

若手芸人の高齢化はM-1グランプリが始まった頃から声高に叫ばれるようになる。実際、僕が物心ついた頃には、メディアで活躍する有望な若手芸人はほとんどが30代以上になっていた。気がついた頃には「面白い芸人というものは自分より大幅に年上である」と刷り込まれた子供になっていたわけだ。無論、いつの時代もライブシーンでは10代や20代前半の若手が活躍しているのだが、秋田県の田舎町で過ごす当時の僕にその存在が届くことはなかった。

果たして、自分と同年代の若手芸人を発見し、その面白さに感動して、それに気づかない周囲を見渡すことで優越感を味わうようになったのはいつからだろうか。僕の場合は「そうじゃねえだろ」の出会いが初めてのそれに当たる。

そうじゃねえだろは、91年生まれの仁木恭平と西山広高(後に「シャラップ」と改名)によるコンビである。西山のブログによると結成は2013年2月とあるが、それぞれの存在はもう少し前から認知していたと思う。なぜコンビを組む前から存在を知っていたかというと、彼らが極めて早い段階からインターネットに適応した活動を行っていたためだ。

2人は、いわゆる「ネタツイ」の人であった。特に仁木については、遅くとも2011年にはTwitterで存在感を発揮していることが確認できる。当時はSNSが急激に勢力を拡大していく中でユーザーが増えており、比例してつまらない人間のツイートも急激に増えていた。そんな中、そうじゃねえだろの2人は、当時の「2ちゃんねる・お笑い小咄板の『先鋭化したメンバー』」などと共にTwitterでも面白いことを表現できることを証明していく。

Twitterによる活躍は、旧来のメディアに依存しない新しい形態の露出であり、極めて先進的だった。今でこそ「ネットで人気だけどメディアでは活躍の場がない芸人」が多数存在するが、そうじゃねえだろはその先駆けである。初めて「自主的な」インターネットでの露出が先行した芸人といえよう。

結成同年には、人気Webメディア『オモコロ』で連載を開始。同サイト内でラジオ番組の配信を開始するなど存在感を増していく。そうじゃねえだろは、前述の『先鋭化したメンバー』と共に「インターネットで一番面白い人たち」として僕の中に刷り込まれていく。

(余談だが、『先鋭化したメンバー』が発展的に入れ替わりながら自主的に始まったサイトが『けつのあなカラーボーイ』であり、このサイトの執筆陣から著名な作家やライターが多数輩出されていることからも、当時のそうじゃねえだろが極めて先進的な目で活躍の場を選んでいたといえよう)

地方住在の若者にとって、東京や大阪の小劇場で開催される若手芸人のライブというものはあまりにも敷居が高く、簡単に訪れられる場所ではなかった。だからこそ、インターネットで活躍するそうじゃねえだろの存在は圧倒的に身近であり、初めて心から敬愛する存在になったといえる。

とはいいながらも、そうじゃねえだろの活躍見たさに勇気を振り絞る日はそう遠くなかった。この頃に夜行バスに乗って見に行ったライブが伝説の『バスク』であり、『そうじゃねえだろvsガクヅケ シリーズ』なのだが、これについてはまたどこかかで書く。ともかく、この有象無象の若手が集まるライブの中で輝くそうじゃねえだろの姿はすこぶる格好良く、心に打ち震えるものがあった。

そうじゃねえだろのネタは、静かな凶暴性と恐ろしいほどの慈愛に満ち溢れたものであった。時事ネタやネットスラング、「ふつうそういうのはお笑いの文脈で使わねえやつだろ」と思わせるテクニカルタームの多用をぶつけるネタは、新時代の芸人とはかくあるべきと感じさせる内容だった。客席から眺めるうちに、僕は「ああ、これこそが僕の時代のお笑いだ。これを世間に突きつけてくれなきゃダメだ」と心から思っていた。賞レースの結果を真剣に見るようになったのもこの頃からである。何度でも強調する。初めてだったのだ。自分が面白いと信じるものが、世間に認められていく様を見届ける経験というものは。

一方で、そうじゃねえだろというプロジェクトの終焉も早いものだった。突然の西山の難病発症と、それにより相次ぐ活動休止。結果的にそうじゃねえだろは結成から3年で解散することとなる。

西山がどんな病気なのかは最後までハッキリと語られなかったが(というか、複数の病院で診断を受けるのだが、医師でも病名や治療法が分からないので西山本人も正しいことが言えないとのこと)リスナーにとってすればそうじゃねえだろの活動継続が困難なことは目に見えて分かっていた。

自身のラジオで病状について語る西山は明らかに声がガラガラであり、その重症度と症状発生の頻度は致命的だった(一応、ラジオ収録の冒頭で声がガラガラな理由を野々村議員のモノマネをしているとして処理してくれるのだが、あまりにも毎回野々村議員なのでどんどん笑えなくなっていく)。

そうじゃねえだろの活動が終わったのは2016年5月のオールナイトライブである。タイトルからも分かるように、そうじゃねえだろ解散を見届けるために、地下の若手芸人(その中でも特に若い20代前半がほとんど)が集まったオールスターゲームのようなライブだった。

この日の模様は、サンシャイン坂田のnoteに詳しく書かれているのでそちらを参照してほしい。当該記事のヘッダーに写る面々を見るだけでも凄まじいメンバーが集った事がわかる(ちゃんと大鶴義丹の衣装を着ているし、メチャクチャ痩せてる大鶴肥満の姿に驚愕)。記事内で触れられていないけれど、当時養成所を出てすぐの四千頭身後藤も「とても有望だけどまだ中学生」という肩書で紹介されていた記憶がある。

ライブは大盛況に終わり、エンディングでは銀杏BOYZの『東京』をバックに西山による解散にあたっての挨拶がスクリーンに流された。映画のエンドロールのように流れた長文の挨拶の内容を詳しく紹介するのは避けるが、これまでの半生と相方への思いと病気による解散への無念さを語っていたことは触れておく。ラジオの締めで毎回叫んでいた「絶対、売れてやるからな!」という決め台詞についての回答も語られていたと思う。

挨拶は西山がTwitterで見せるウィットに富んだ文体であり、会場からは度々笑い声が湧き上がったが、同時にすすり泣く音も聞こえた。僕も泣いた。お笑い芸人のライブで泣いたのは後にも先にもこの一回だけである。

あれから4年が経った。仁木は新しいコンビでフジテレビの深夜帯にレギュラーを持ったが、出演番組の終了とともに再び解散を選んだ。西山は「シャラ~ッペ」の名で作家に転身したが、福岡に移住して東京での活動は僅かになるという。どちらも本人の意志による納得した決断だというのでファンとしては見守りたい思いだが、同時に、ああ、そうじゃねえだろはまた少し遠くなってしまったなと感じないでもない。

そうじゃねえだろが解散したとき、2人は25歳の代だった。今、東京ホテイソンはまさに解散したそうじゃねえだろと同い年の代である。僕にとってのそうじゃねえだろが同世代の希望の星だったように、今の東京ホテイソンは、どこかの若者にとって憧れの眼差しを向けられていることだろう。だからこそ、という訳ではないが、僕はM-1グランプリの優勝候補に東京ホテイソンを挙げている。あの頃叶わなかった夢の幾らかを肩代わりしてくれたら、それはそれで嬉しい。いやあ、若者達にとってみればジジイが勝手に想像しやがって、そうじゃねえだろとも思うだろうけど。

<ヘッダーは仁木恭平のツイートより>

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