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ポケモンSVはポケモンイチロー/MOTHERである

この1か月、ずっと『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット(以下SV)』をやっていた。発売後2日でクリアして、一度データを消して、昨日まで2周目をやっていたところである。3周目に入る前に、せっかくなのでSVについてどういうことを思っているのか書くことにした。


マクロなフィールドとミクロなポケモンの産毛

さまざまな媒体で強調されているように、SVという作品最大の魅力はシリーズで初めて全面的にオープンワールドを採用したことだ。宣伝文句に嘘はなく、SVのフィールドはミライドン/コライドンに乗って適当に走り回るだけでも飽きることがない。30も過ぎた男にとっては、だいたいゲームのフィールドのどんな位置に何があってどう進むべきかはマップを見ただけで想像がつくものなのだが、SVはこのマンネリを感じさせなかった。「あの山の向こうに何があるのだろうか」「この谷の下には」「この壁の向こうには」というプレイヤーの根源的な欲求をコントロールすることで何時間も興味を保たせる技術は見事である。

かと言って、SVのフィールドそれ自体に絶対的な魅力があるわけではない。実際のところ、SVのフィールドは一般的なゲームの原則(高所や海の向こうといった遠方には大きなリターンが隠されている、あるいは、ゲーム内のイベントをクリアすることによって移動可能範囲が広がる等)に沿って作られており、決定的な目新しさがあるわけではない。だが、それでも飽きることなくプレイできた理由は、「過剰とも言える量のアイテムがフィールドに落ちていること」「行く先々で出会うポケモンが魅力的なこと」の2つだろう。

アイテムの量については文字通りの意味なので割愛するとして、驚かされたことは、今更になって「ポケモンが動いているのを見ると楽しいなあ」と再確認させられたことである。これはポケモンの外観的な存在感が増したことによる影響が大きい。この変化は、直近の本編シリーズ過去作である『ポケットモンスター ソード・シールド(以下剣盾)』以前から引き続き登場するポケモンを見比べると分かりやすい。モデリンクの細部が描き足されたり表面のテクスチャが細かく調整されたりといった工夫により、SVのポケモンはこれまでとは比べ物にならないほど存在感が増している。

もちろん、このようなモデルの改善はポケモンシリーズでは新作が発売される度に繰り返されているものである。厳密な意味での本編シリーズ前作である『Pokémon LEGENDS アルセウス(以下アルセウス)』でも、魚ポケモンに鱗の描写が入ったりや虫ポケモンに複眼の描写が入ったことは注目を集めた。その上でSVはまたグンと魅力を増しているように思える。単純に収録ポケモンの数が増えた(アルセウスは240匹、SVは現時点で400匹)ことに比例して好印象を受ける機会が増えたことも影響しているのかもしれない。また、アルセウスがポケモンの神秘性を強調するために陰影を強調した極端なライディングだったのに比べ、SVは身近な存在として風景に溶け込むライティングだったことも印象の変化に与える影響が大きいだろう。

ともかく、最序盤に出会った野生ポケモンを見て「ルリリ!お前は表面にそんな産毛生えてたんか!かわいいのう!」などと思った感動は間違いのないものである。しかし、SVでポケモンの表面に使われているテクスチャは決して種類が多くないように見受けられる。この少ないパターン数で魅力的な外観を作れるのが実に不思議だ。

社会(フィールドと産毛の間にあるもの)

また、剣盾と比較した場合にSVで大きく変化した点として「社会の描き方」が挙げられる。

ポケモンの本編シリーズは元来より携帯機で発売されていたが、剣盾からハードがSwitchに移行したことにより表現の幅が格段に広がった。剣盾の舞台となるガラル地方は、Switchの描画性能によって過去作とは比べ物にならないほど多くの情報量でその情景が表現されている。

この情報量の増大した恩恵を活かし高精度で描かれたのが、ガラル地方の社会である。ポケモンリーグ及びその傘下にあるスタジアムはプロスポーツそのものとしてショーアップされており、子どもたちは半ば通過儀礼のようにポケモンと旅に出てジムチャレンジに挑む。しかしそこには大人たちの欺瞞や暴走が見え隠れして……というのが「ガラル地方の社会」である。

さらに、この社会を構成する要素についての掘り下げも細かい。ガラル地方のジムリーダーはトッププロ選手としてスタジアムの観客を楽しませるプライドを持ちつつも、シビアな降格争いを勝ち抜かなければいけない。サッカー・プレミアリーグを連想させるこの構造は過去作には無かった設定であり、ポケモンと共生する社会がどんなものなのか語る想像力に説得力を持たせた。

しかし、SVにおいては、例えばジムリーダーの描き方ひとつをとってもまったく異なる形で提示されている。プロ選手であったガラル地方のジムリーダーと異なり、パルデア地方のジムリーダーは一部を除いて全員が別に本職を持つ兼業選手だ。これはSVにおいてジムリーダーはアマチュアのトップ選手であること、あるいは、少なくともガラル地方のようにジムリーダーとして莫大な報酬を受け取っているわけではないことを示唆している。

また、シリーズ恒例であるジム戦前のミニゲーム要素(ジムミッション)も、SVでは非常に土着的な内容となっている。これはパルデア地方におけるジムが所在地の祭りや風土と密接な関係にあることを語っており、エンタメとしての魅力と歴史的な権威によって土地から認められていた剣盾のジムとは対象的な構図だ(もちろん、剣盾でSVのような土着的要素が皆無だったわけではなく、だからこそスパイクタウンのようなイベントがあるわけだが)。

素人目で見れば、SVで新しい路線を描くよりも剣盾路線をそのまま引き継いだ方が安全であったように思える。実際、マンガ的(あるいは今日における深夜アニメ的な、と言ったほうが良いかもしれない)な想像力で描かれた剣盾のジムあるいはジムリーダーたちは、ハイティーン層以上のポケモンファンをシリーズに惹きつける魅力を持っていた。しかし、SVが別路線を切り開くことでまた新たな親近感をプレイヤーに抱かせているのを見るに、なるほど上手にやったものだなと感心するばかりである。

さらに、SVの物語的拠点となるオレンジ/グレープアカデミーはパルデア地方における権威的かつ歴史的な私立校であり、その出身者はある種の特権階級として社会に評価されていることも作中で示唆されていた。実際にシナリオを追っていると、アカデミーが超金持ち・超エリート家系のための学校であることが台詞の端々から伝わってくる。スター団のザコたちだって、実は全員実家が大金持ちだ。「学生服の中年や老人に違和感を覚える」という声もあったが、あれは生涯スポーツとしてウォーキングとか水泳とかを楽しむブルジョワの余暇という表象であろう。彼らは普段、若年層の学生とは異なるカリキュラム・時間帯でアカデミーに通っているが、宝探しについては全学統一のイベントとして参加している……という設定(だと思う)。ともかく、一貫して主人公を中流階級以下の子どもとして描いてきた過去作とは大きな違いである。

この、「超金持ち・超エリート家系」という要素は、シナリオに沿ったキャラクターたちを作る上でも効果的であったはずだ(特に、『ザ・ホームウェイ』におけるペパーの立ち位置を明確にする上では)。SVのシナリオを作る際、「国家的プロジェクトの主任研究員という特権階級に、これまでとは違うパターンで、どうやって中流階級の子どもの冒険を接続するのか?」という問題に直面したであろうことは容易に想像がつく。まさか子どもの側を「上げる」とは、実に力技である。

ネモ

さて、SVのプレイ中、ずっとよく分からなかったキャラクターがネモである。物語冒頭ですでにチャンピオンランクであることが明かされる、というこれまでにない立ち位置で登場するキャラクターであり、一見すると狂言回しのようだがそれは序盤だけの役割である。途中からは各地でジムチャレンジをご都合主義的に先回りし(ただし、一度クリアしてから見返すと、これはオモダカの視察を代行してのだと分かるのだが)、ポエミーなことを言ってはやたらに主人公の成長を祝福するという実に空回りした人物であった。

ネモが作中で登場する度に「なんでこんなキャラを出しちゃったのかなあ」と思っていた。従来のシリーズにおけるライバルの立ち位置なのだが、主人公と対立するでもなく協力するでもなく、物語に関わりそうで関わらない。シリーズのお約束としてライバルの表層を残すために作られた安易なキャラクターのようで目障りだとも思っていたのだが、結果的にシナリオの終盤に至った際にこの印象は大きく変わることとなった。

ところで、描画性能の向上した剣盾以降に大きく取り入れられた演出として、トレーナーがモンスターボールを投げる所作を細かく描くというものがある。この演出におけるパターンとして特に目立つものと言えば、プロ野球選手のフォーム引用することにより、キャラクターの個性を強調することに成功している例だ。「ダンデは野茂英雄(ガラルの英雄だから)」「ウォロは近鉄時代の岩隈(不気味な細面だから)」のように、動きを設定することで効果的にキャラクターの掘り下げている。

それを踏まえてネモの所作を見ると面白い。『チャンピオンロード』のラスボスとして登場するネモは、それまでの対戦では隠していたであろう、本気を出した時のみのルーティーンを見せつけてくる。これを見た時、僕はハタと膝を打った。ボールを握った左手を突き出し、右手で左肩の袖口をまくるという所作は、言うまでもなくイチローが打席に入るときのルーティーンを模したものである。

なるほど。ネモとは、「大森滋によるイチローの解釈」を表したキャラクターだ。それもおそらく、引退した後の「今の、不思議な立ち位置のイチロー」であろう。あの、東京ドームを貸し切って草野球をやっているイチローである。あの、あんまり強くない高校の野球部も指導して回っているイチローである。あの、「マリナーズ会長付特別補佐」という謎の肩書でおなじみのイチローである。

ネモは、日本のプロ野球選手のトップランナーとしてメジャーで活躍し、結局誰も追いつくことができないまま引退したイチローそのものだ。対等に戦える相手を求め続け、常にトップランナーの威厳を見せつけることで後輩たちに成長を促していた男の写し絵である。確かに、イチローは他の日本人選手にとって敵ではないし、協力する存在でもないし、直接的に関わるわけでもない。ポエミーなことばかりを言って、何を言ってるんだかよく分からないことが多い。イチローは「お約束のようにイチローであること」が重要な存在である。そう考えるとネモというキャラクターの奇妙さについて、僕の中であまりにもきれいに合点がいった。

ネモは「ネモという存在」の価値を認識して、意図的にそれを振る舞うことが可能な賢いキャラクターである。戦闘狂だとかヒソカだとか言われているが(まあそう言いたくなる気持ちも分かるけど)、実際はもう少し達観した人間である。それは例えば、あのオッパイの形が丸出しなピチピチのシャツも「わかった上で」やっているに違いない、のだ。

うたうコライドン いのるミライドン

オープンワールドによる自由度を謳ったSVだが、物語の最後を締めくくるのは不自由さによる美徳であった。言うまでもなく『ザ・ホームウェイ』におけるラスボスのコライドン/ミライドン戦のことである。

TVゲーム、特にコマンド選択式RPGというジャンルは、冷静に見れば不自然な仕様によってアーキテクトされた遊びだ。誰しもが一度は「何故、登場人物は限られたコマンドの中からしか行動を選べないのか」という疑問を抱いたことがあるだろう。ポケモンはオープンワールドという自由さを得ながらもコマンドというがんじがらめのシステムを同時に続投させており、その両立は一見すると非常にナンセンスである。

また、プレイ中は常に手持ちポケモンの選択画面に表示されておきながらも選択カーソルをコライドン/ミライドンに合わせることはできないという点は、不自由を超えて目障りですらあった。だが、あの演出はこのことを目障りであると感じていた人にこそ響くものだったに違いない。

多くの人が感じたであろう既視感は、この演出が時たまTVゲームで見られる「大技」だからである。最近の作品で言うならば『Undertale』であり、さらに遡るならば『MOTHERシリーズ』でも見られるものだ。UndertaleはMOTHERに強い影響を受けた作品であり、ポケモンもまた然りである。

そう、あのコライドン/ミライドン戦の演出は、SVがオープンワールドという新たな枠組みを獲得しつつも、MOTHERの精神を引き継ぎ、「コマンド選択式RPGだからこそ可能な表現の矜持」を捨てなかった意味を改めて表明していることに他ならない。もちろん、その精神がUndertaleに代表されるMOTHERフォロワーたちによって脈々と引き継がれていることを(それは、SVがコンポーザーの一人としてトビー・フォックスを活用していることからも分かるように)忘れてもいない。

これからのTVゲームはどんどん自由な操作になっていき、オープンワールドという概念も数年後には宣伝文句にすらならないありふれた特徴になるだろう。いずれポケモンもコマンド選択式RPGではなくなる。それを否定するつもりはまったくないのだが、しかし何年か後に「アレもよかったよなあ」と振り返られるということは、SVというゲームを作った大きな意義であったと思う。

なぜこの演出は本作でなければいけなかったのか

思えば、MOTHERは当時としては異常なほど広大なフィールドがほぼシームレスに繋がり、さらにデフォルトで斜め移動が可能であるという、ファミコンの性能をフルに発揮することを前提としたゲームである。これによってプレイヤーは同時代のゲームにはない没入感と冒険感を得られたわけだが、言い換えればこれはファミコンのスペックで可能な最大限のオープンワールド(的概念)を実現しようとした挑戦であったようにも思える。SVはある種、MOTHERのコンセプトを最新機種でリブートした作品であるとも読み解けるのだ。

おそらく、コライドン/ミライドン戦の演出方法自体はかなり古くから制作スタッフの中で考えられていただろう。しかし、この演出をラスボス戦で成立させるためには、ゲーム内の長い時間をかけてプレイヤーに特定のポケモンを持ち歩かせ、印象付けなくてはいけない(だって、ぽっと出の知らないポケモンにラスボス戦で活躍されたって困るよねえ)。パーティーの変更自由度が高いポケモンシリーズにおいてそれは困難であり、単なる手持ちポケモンではない立ち位置の存在をどうゲーム内に落とし込むかという点で苦労したことが想像できる。

この困難を、「オープンワールドで絶対的に必要な“足”の役割を特定のポケモンに担わせる」という豪快なアイディアで解決したことには舌を巻いた。いや、もしかしたら大森滋が『サン・ムーン』のディレクターとしてポケモンライドという概念を持ち込んだのは、このアイディアを違和感なく実現するための布石だったのかもしれない。そう思うと、オオッ、やるじゃん、なんて妄想して悦に浸ったりもする。

終わりに

とは言ったものの、個人的にSVはそれほど満足のいく作品ではなかった。いや、もちろん面白い。面白いのだが、端的に言って「大したことのない話を上手に演出したなあ」以上の感想がない。SVのストーリーで語られる内容は冷静に見ると非常に紋切り型で、何かを言っているようで独自性のあることは何も言っていないのだ。こんな「教条的いい話」を6,578円も払って見せられても困るのである。

それから、この記事においてはSVのバグやエラーといった処理能力系の問題については意図的に触れないことにしている。これは、僕が最新のゲームにおける処理能力の実情について詳しくないからどうしても不正確なことしか書けないためであり、その問題が作品の「表現」を評価するにあたって本質的には無関係だと考えているからだ。もちろん、処理の問題が発生することは表現への没入感を阻害するので望ましくないと分かるのだが、そんなこと言うのなら映画でも見てろよっていう話である。映画ならバグも出ないし、エラー落ちもしないぜ、っていう話。

以下、その他雑感

・アルセウスは、最初に手に入るライドのアヤシシが異常に高性能で崖もガシガシ登っていけるのが良かった。アレは登山とかフリークライミングのような感覚をゲーム内で味わわせるための意図的なものだろう。対してSVのコライドン/ミライドンはアテもなくバイクを走らせる感覚の再現として優れている。特に東エリアの荒野を突っ走っている時間は、あの気怠い曲も相まって『イージー・ライダー』を連想させた。

・ところで、このゲームはセーブデータを消した後の2周目が楽しい。クリア時には全開放されているライドフォルムがリセットされるので2周目序盤の移動は実に退屈になるのだが、その退屈さが良い。ケンタロスの群れなんかを眺めながらチンタラ走っているのが楽しい。このゲームは風景が良い。スペインに行きたくなる。

・そういえば、「意図せずセーブデータが消えた」「リメイク版やマイナーチェンジ版が発売された」以外の理由でポケモンのストーリーを2回やったことは人生で初めてである。ポケモンに限らずRPGではSVが初めてかもしれない。

・エリアゼロ探索時に主人公の周りを3人の仲間がくっついて回るシステムは、たぶんゲーム開始時にニャオハクワッスホゲータの3匹を連れ回しながらネモの家まで歩くシステムのパラメータを弄ってるだけだと思う。とても良いことだと思いました。

・今やシリーズ恒例となった「特定のフレーズを要所のBGMで引用する」という演出が今回も良かった。剣盾の場合はガラル地方各所の街中で流れているフレーズをダンデ戦のBGMとして引き受けるといった形だったが、SVは南エリアのフィールドBGMがその役割を担当している。2周目に入ると、あらゆる大事なシーンで使われていることが分かって面白い。オープニングムービーからエンディングまで全部南エリアのBGMだ。SVはフィールドが主役のゲームなのである。

・あと、SVはキャラクターが常にまばたきをしていることによりグッと人間味が強化されたことも良かった。アルセウスの時点でムービーシーンにはまばたきの演出が入っていたけれど、あれはキャラクターの緊張感などを表現するための技術であって人間味ではない。SVはフィールドにいるモブまでがムービー以外でも常にまばたきをしているので、実に親近感が湧く。

・それから、SVはムービーシーン全般の演出が極めて良かった。ムービーシーンと言っても2種類あって、「ボタン操作で台詞を飛ばせないムービー」と「飛ばせないムービー(これを僕は勝手に半ムービーと呼んでいる)」に分けられる。半ムービーは通常の素材をそのまま流用していることもあって味気ない画面になりがちだけど、SVは状況に合わせてカットを割りまくるので見ていて飽きない。コルサ戦とか、意図的に「アヴァンギャルド」なカット割りなんだけど、突飛なだけじゃなくてカッコいい。誰がコンテ切ってるんだろう。エンドロールを見ても確実にそれと分かる肩書の人が見当たらなかった。

・ムービーの中で、弱っているコライドン/ミライドンをネモがたびたび気にかけているのが良かった。ムービーのネモは母性が強い。『チャンピオンロード』のラスボス戦前に入るムービーで、モンスターボールに「もうすぐ だよ……」と語りかけながら主人公を待つネモは実に母性的なエロティシズムを感じさせるし、普段は抑えている自らの狂気をコントロールできず飲み込まれているようにも感じられて、見ていると非常にゾクゾクする。

・ポケモンって、捕まえた後は本人の意思に関係なくトレーナーの命令で行動が決められる(もちろんそういうゲームシステムだし、それを受け入れた上で遊んでいるわけだが)のがなんかアレだな~とずっと思っていたんだけど、今回のコライドン/ミライドン戦はたぶんシリーズで唯一モンスターボールの中から本人の意思を表明をしてくれたので、嬉しかった。

・もっと言うと、コライドン/ミライドン戦はポケモンを信頼すると言うよりも、「ゲームシステム上、たぶん仲間の声援通りの選択をすれば勝てるはずだ!」っていうポケモンシリーズに対する信頼みたいなのを試される瞬間があった。忖度と言ってもいいかもしれない。でも、キャラクターを飛び越えてゲームソフト自体に信頼関係を築けたと解釈するならば、それはいいことかもしれませんね。

・コライドン/ミライドン戦でテラスタルオーブが復活する理由について一切説明しなかったのはマジでダメだ。「奇跡が起きた」「DLCで説明します」のどちらも端的に卑怯だと思う。

・『ザ・ホームウェイ』では至るところにSFチックなメカニックが登場するのだが、そのどれもが「いかにもSF」という手垢のついたデザインだったのは嫌だった。どうしてもっと「ポケモンだからこその様相」を加えてくれなかったんだろう。『スターダスト★ストリート』のボス戦なんて完全に『怒りのデス・ロード』だけど、「乗り物自体がポケモン」っていうサイコーのアイディアで独自性を出して単なるパロディに収まらないものを表現できてたじゃん。

・もちろん『ザ・ホームウェイ』はプレイヤーに話を読み解いてもらわないといけないシナリオだから、あんまりノイズになる表現を入れて注意を逸らさないためにもテンプレートなSF描写でまとめたんだろうが……。あ、でもタイムマシンからポケモンを捕獲途中のマスターボールが降ってくるというアイディアは良かった。あそこはちゃんとポケモンしている。

・僕は1992年生まれなので同世代とポケモンの話題になると大抵『金・銀』でカントー地方に行けた思い出の話になる。しかしマジで金銀はこの話ばっかりだな。でも、それでいいと思う。ゲームの感動における本質的な要因って抑圧からの開放だと思うから。俺たちはジョウト地方というフィールドから開放された瞬間の感動を一生忘れないんじゃないですか。

・そういう意味では、SVを遊んだ子どもたちが20年後に「ボールがロックされて終わったと思ったら、コライドンが使えるようになるの、感動したんだよー!」「俺はミライドンだったよー!」って話すオジサンになってくれたら、同じゲームをやった人間として嬉しいよね。その頃俺はもう50歳になっているけど。

・やっぱり僕はコライドン/ミライドン戦が本当に好きで、他の人はどんな反応だったんだろうと思って、YouTubeで実況動画を見まくってしまう。外国語は分からないけど、あのシーンだけだったら何を言ってるのかバッチリ分かるので、海外のYouTuberの動画も見てる。恥ずかしい。

・外国人YouTuberの実況動画も見飽きたので、今は子どもが実況している動画を探している。でも、どの子どもも1日のゲーム時間が決められているらしく、発売から1ヶ月経ってもぜんぜんコライドン/ミライドン戦にたどり着いてくれない。みんな『みまもりSwitch』を設定してゲームを我慢しているのが偉い。俺は10時間とか普通にやってしまうので、小学生以下だ。

・僕はSVやってて泣くことはなかったけれど、子どもがコライドン/ミライドン戦の正解に自力で気づいた瞬間を見たら、泣いてしまうかもしれない。おそらく泣くと思う。他人の子どものゲーム実況を見て泣く、という行為は、何らかの犯罪にあたるのではないだろうか。

<ヘッダーは志村貴子『敷居の住人』2巻P128より>

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