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「旅する本棚」は読者の心の中に。


高校生の僕にとって、
本は"借りる物"という認識だった。

毎日のように図書室に入り浸っては本を借りまくった。無料で好きなだけ本を読める最高の空間だった。

そんな僕が本を"買う"ようになったのは、
お小遣いが上がった高校2年生になってからだ。

お金に幾分か余裕が出来た僕は、初めて本屋で本を買った。図書室のようにバーゴードを通すだけではなく、レジへ持って行き、現金を払って本を受け取る。

人生で初めて買った本が何だったのか、流石にそこまでは覚えていない。けれど、その本を大事に大事に扱い、いつも以上に物語に引き込まれたことは覚えている。同時に、無料でいくらでも読める図書室の本をどれだけぞんざいに扱っていたかも思い知った。

僕が買った、僕の本だ。

読み終えるその瞬間まで、
その本は紛れもなく僕のものだった。


さて、自分で買った本をあらかた読み終えた頃、僕はとある問題に悩まされる。
読書を嗜む人なら一度は思い悩む、あの問題だ。

読み終えた本は、どうすべきか?

不思議と古本屋に売るという選択肢は毛頭無かった。隅々まで楽しんだ本を手放し、それをお金に換えるという行為に、一種の後ろめたさを感じていたのかもしれない。捨てるなんて以ての外だ。

考えに考えて辿り着いた場所が、図書室である。今まで散々利用してきた図書室に、自分が買った本が並ぶと考えるとワクワクした。

早速学校の昼休みに図書室へ持って行き、先生の許可を得て本を寄付する。綺麗な装丁の裏側にバーコードが貼られ、図書室の本棚へと仲間入りする。

僕は誇らしい気持ちを胸に図書室を後にして、放課後には本屋へ寄り、またたくさんの本を買った。それらを読み終わる前から、図書室に寄付することを楽しみにしている自分がいた。

売ったり捨てたりすることには抵抗があったのに、無料であげたり寄付したりすることにはなんら抵抗がないとは不思議だ。

いじめを受けていた僕にとって、図書室は唯一の居場所だった。あの場所には本当に助けられたと思う。その恩返しの意味もあったのかもしれない。

僕が寄付した本を誰かが借りて、その本に感動してくれたらどれほど素敵だろうと思った。その人と感想を共有できたらもっと楽しいのだろうけれど、孤独な僕には叶わない願いだった。



今日もどこかで
僕が読んだ本を誰かが読んで
僕とは違う新たな景色を見ている。






相変わらずブックカフェ「ネコノヒゲ」に足繁く通っている。どんなに仕事が忙しくても本は読みたいし、ゆっくりコーヒー飲みたいし、たまにはガッツリ飯も食いたい。

僕のnoteでも何度も紹介しているが、「旅する本棚」を利用して、読み終わった本はバンバン持ち込んでいる。
「1冊持ち寄れば、1冊持ち帰れる」というシステムだが、最近は積読が多すぎて本を持ち帰る余裕がない。一方的に寄付しまくっている。


高校の図書室に入り浸っていたあの日から
10年以上が経つ。

同じようなことしてんなぁ、って思う。



出版された本は人に買われる。
やがて手放され、次なる人の手に渡る時に、本はふたたび生き返ることになる。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』



僕の好きな作家・森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』に登場する、僕の大好きな言葉だ。

青くて痛くて脆かった僕の言語化出来なかった気持ちを、見事に代弁してくれいる。
そして、その気持ちは今も昔も変わることはない。


「旅する本棚」は
何もネコノヒゲだけではない。

きっと本を楽しむ全ての人の心の中にあるのだ。

あの日の僕の心の中にも「旅する本棚」があって、たくさんの本が並んでいた。


ネコノヒゲの店長さんに本を手渡すと、「いつもありがとう」と笑顔で受け取ってくれる。

その笑顔が、あの日の図書室の先生の笑顔と重なる。


そう言えば、
図書室の先生の名前は何だっただろうか?

どうも思い出せない。




僕の数少ない思い出は


どれも悲しくて、綺麗で、曖昧だ。





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