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短編小説『同棲』


『..ピ、ピ、ピピ、ピピピーー!!!!!!!』



ヤカンが沸く音がリビングに響き渡る。コーヒーを淹れる為のお湯を沸かしていたのをすっかり忘れていた。


いつも私にはこれがなにかの警告音に聞こえる。



「も〜...ミキ早く止めてよ」


ユウスケはスマホを見ながらぼそっと呟いた。


「今止めるからちょっと待ってて」


暇ならユウスケが止めてくれてもいいじゃん。 そう思いながらも早足で換気扇の音がするキッチンへ向かった。
最近は 同棲とはこういうものである。 と思いながら過ごしている。お互いに小さな不満を持ちながら、共同生活を行うのである。これが日常。当たり前。精神衛生上この方が良いのだ。



火を止め、警告音のような音は止まった。予め用意していたコーヒーセットにいつものように熱湯を注ぎ、ミルクも少し垂らした。黒色に少しずつ白色が混ざり合っていく。



淹れたてのコーヒーは熱くて苦かった。




私はこんな日常が永遠に続けばいいと思っている。





同棲生活を始めたての頃、彼は優しかった。料理を一緒に作ったり、洗濯物を畳んでくれたり、面白い映画があるからとTSUTAYAで借りてきて一緒に観たりもした。彼といる時間は今までの人生のどの時間よりも濃く感じた。


今まで"恋人"という存在が出来たことないミキにとってユウスケの存在は光よりも眩しいほどであった。



この人は将来のパートナーになるのではないかと錯覚するほどに。




1ヶ月を経った頃から徐々に彼は私よりも仕事を優先するようになった。

最近は大きな仕事を任され、かなり忙しいらしく帰って来るのが24時を回ることも少なくなかった。

料理を作っても帰りが遅いからいらないと言われたり、休日も一日寝ていて会話をしても続かなくなっていた。電話をしても出ることはなく、決まって【仕事中】と返信が入った。気付いたら彼の口癖は「疲れた」になっていた。



しかし、これも日常であるとミキは自分に言い聞かせていた。




『これは誰?』

ミキは彼の携帯を見た。もちろん無断でだ。そこには明らかに男と女のやりとりをしていたものを発見したため、問い詰めようと決心したのだった。

『あ〜これは仕事の人だよ』

決まり文句かのような、誰も信じない言い訳をついてきた。じゃあこれは?とやりとりの一部を彼に伝えると慌てて謝罪をしてきた。



浮気とはこういうものか。経験しておきたかったことの一つであるとミキは心の整理をつけた。





浮気がバレてからというもの、ユウスケはたくさん私にかまってくれた。仕事が落ち着いたのもあるのだろうか。わかりやすすぎるほどではあったが、それでもしてくれないよりはしてくれたほうがいいに決まっている。今まで以上に家事も手伝ってくれたし、デートに行く回数も付き合いたての頃と同じぐらいになってきた。

今日も二人でショッピングに行ったところだ。





これが続けばいい。ミキは願っていた。




しかし、今日がユウスケとの最後の日であることはミキ自身もわかっていた。


わかっていても、どうすることも出来ない。そのままベッドに横になり、目を閉じた。






『....ピピ、ピピピ、ピビピ、ピピピ!』


なんの音?これはヤカンの音ではなく、アラーム。間違いなく私を目覚めさせようとしている。



『お...つ...で..た。』


ん?



『...お疲れ様でした。』



2ヶ月振りの研究員の声で目を覚ました。





ミキは自分らしくあるために数々の苦労をしてきたが、努力は虚しく一向に"恋人"が出来なかった。そして、"恋人"が出来ないその理由をミキ自身が一番理解していることは皮肉な事実であった。

そんなある日、街中でこんな広告を見つけたのである。

【仮想恋人、お試しモニター募集中※条件あり】

どういうことか理解が出来ず、不安な気持ちはもちろんあった。しかし、それよりも恋人が欲しいという気持ちが先行し、気づいたら広告の電話番号に連絡をしていた。

電話で伝えられた内容は2ヶ月間、身体を凍死状態にし、脳だけを活動させる。そして夢の中、いわゆる仮想現実の世界で用意された仮想恋人と同棲生活をしてもらうとのことだった。

なんのためにやっているのかと聞いたところ、VRの本格的施工に向けての最終チェックのために無料でモニターを募集しているとのことだった。
そしてもう二つ目が、"恋人"が出来たことがない人間がいきなり同棲生活をすれば果たしてどうなるのかという恋愛実験の二つの目的があるとのことだった。

他にも応募者がいたのそうだが、過去の人間関係を洗い出し、本当に恋人がいないことを確認するほどの徹底らしく。応募してきたほとんどの人間は過去に恋愛をしていた。その中で唯一、"恋人"が一人もいないことが発覚したのがミキであった。

そして、ミキが選ばれた。仕事は長期休暇を取り、こうして、2ヶ月間の仮想"恋人"生活をスタートさせたのであった。




『お疲れ様でした。』


研究員の無機質な声に起こされた。


『ずっと見ていましたが、見事な同棲生活でした。』


マニュアル通りのお世辞にしか聞こえなかったが、ありがとうございますと返事をした。


『あなたならいつでも恋人は作れるはずです。こちらとしても貴重な実験結果となりました。』


貴重...か。他人の人生をサンプル数の少なさだけで珍しいモノ扱いする研究員に腹が立った。


『...あ、すみません。今回はありがとうございました。これにて終了でございます。お疲れ様でした。』


顔に苛立ちの表情が出ていたことを気付いた。そして同時に、こんなやる気のない声から恋愛への自信が貰えたのも私が"貴重"な人間であるからということも理解していた。








『タツヤ、全然電話しても出なかったんだけど、何してんの?』


長らく会っていない数少ない友達からだ。


「もうその名前で呼ばないで」

『ごめんごめん、もう手術もして女に生まれ変わったって聞いたけど』

「うん、今は名前も変えてミキとして生きてる。やっぱり私は女として生きたいんだ」

『うん...それでいい、いやそれがいいよ。最近は何してるの?』

「ついこないだまで2ヶ月間、仮想彼氏と同棲生活してた。初めて"恋人"っていう存在が出来て嬉しかったよ」

『仮想?じゃあまだリアルでは恋人は?』

「いないよ」

『そっか、でもいつか必ずいい人が現れるよ。ミキのことを理解してくれる人が。』

「そうだね、世の中はLGBTへの理解はまだまだだけど、いつか一人の女性として恋愛が出来るようになりたいな。そして、私は私でありたいって思ってる。」

『性別なんて関係ないもんね』

「ありがとう」

『元気でよかった。また電話するね』

「わかった、じゃあね」

『バイバイ』


久しぶりに学生時代の友達と電話をした。私のことを理解してくれた数少ない友人。久しぶりに会う約束をすればよかったと電話を切ってから気づいた。





『..ピ、ピ、ピピ、ピピピーー!!!!!!!』



いつも通り、ヤカンの音が鳴り響いた。



仮想恋人生活を経てから、この音は警告音ではなく、電車の汽笛音に聞こえるようになっていた。


これは自分らしく生きる出発音だ。ミキはそう確信していた。




いつものように熱湯を注ぐ。いつものようにミルクを垂らす。黒色に白色が混ざり合っていく。まるで私のようだ と思う。





そして、淹れたてのコーヒーを口に移した。



ミキは苦い味にどこか甘さを感じていた。




(終わり)

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