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本当にそれを大事だと信じ、何かわからないけど駆られてそのことをやっている、やらざるを得ないような人が孤独じゃないような場所だといいなと思った。
突き詰めることについてまわる孤独、ではない。それは(生きていれば)ついて回ることだし、本人が付き合ってゆくしかないことだ。
そうじゃなくて、社会の根本的な無理解や無関心からの孤独。

たとえ入り口は自分の興味とか自分の関心、自分の情熱からだとしても、突き詰めてゆく中でそれが自分ごとには収まらず、いずれこの世の中の何かに繋がることを自覚してゆく。もちろんどこまで行ってもそれを「世界のために」なんて考えない。自分がやりたいからやっているのだもの。

世の中で生きてゆく直接のことに繋がらなかったりする。
お金ももらえないし趣味の延長みたいに見られるし余裕があるからそんなことできるんでしょと言われる。
何と言われても、自分の生活を投げ売ってでも、一生かけてでもそれを見つめたいからやっている。
それは自分のためだ。でも自分が存在していて、存在していた世界のためかもしれない。
お金のこととか報われないことは、いい。
今の世界のシステムや流行に釣り合わないことはよくわかってる。
一生かかって抱えてゆくつもりのもの、人間の根っこに相当するようなものがお金にどうやって換算されるかなんて私にはわからない、
それを見たいのは自分だし、自分はその役を引き受けたんだからやるだけだ、でも、いつかは届けばいいなと思っているその世の中は一方で、そんな役回りの大事さには気づかない、無価値だと言ってくる。態度で言ってくる。見ているもので言ってくる。
口では芸術や文化が大事と言いながら、しっかり見て、しっかり耳を澄まして、しっかり感じることが大事と言いながら、行動はそういうものを殺すようなことをしてる。悪意なく。

そんな風に思えることがあって、そうするともう森に行っちゃって人間よりブナの木と生きたくなる、でもそれは本当はこの世界の損失なんだよと思う、だからそういう意味での孤独に対して、私はあなたのことを大事に思っていると言いたかった。

私がやりたかったのはそれがすべてなので、大事なことをしているひとを森に追いやるようなことに加担したくない、
でもほんとうに必要ないってことでいいなら、私も森にいきたいよ、と時々思う。

こういうことで頭が熱くなるたびに、私はまだ過渡期なんだなと思う。
このメモは私自身に対するいかりなんだ。
自分が情けない、なんてめそめそしている場合でもない、
嘆いたり怒ったり失望したり諦めたりせずに、ちゃんとよりわけてゆけるようになるんだ。


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