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矛盾しないこと、手渡せないこと

この2年くらいで仲良くなった友達と昼ごはんのカレーを食べながら、子どもの頃は危ない遊びをしたり男の子に喧嘩を売ったりおてんばで木登りばっかりしていた、見た目も男の子にしか見えなかったという話をしたら「今とぜんぜん違うね」と驚かれて、えっ!とそのことに少し驚いた。
そうか、今はどちらかというと静かで内向的に見えるんだな。
むかしはとにかく元気で、いつも笑っていて、ムードメーカー的なところがあった。周りからもそう思われていたし、自分でもそういうタイプの人間だと思っていた。
いっぽうで自分の中にはそれだけでは片付かない部分もあることを感じていて、無理に明るく楽しくしていたわけではもちろんないけれど、ひとりでしんと考えに耽ったり適切なことばが出てくるまで待つような静かな行為のほうが自分のベースにあると感じていた。
匿名でブログを書くようになって、見た目の雰囲気と切り離されて文章だけを主体としてそこに存在して友人ができていったとき、今まで感じていたギャップのようなものから開放されたのを感じたのを覚えている。
ある時舞台の批評めいたことをブログに書いて、身近な方にそれが私の書いたものだということが知れて、あなたにはこんなに静かに言葉を紡ぐような一面があるのだねと驚かれた。その方は私が暴れん坊で力持ちのダンサーである一面しか知らなかったのだ。
あれから15年くらい経って今度は、あなたが元気で暴れん坊だったなんて想像つかないと言われている。

明るくて元気で社交的なことと、自分の内側の世界に降りていってしずかにひとりで充電する必要があること、これは共存する。

以前のわたしは「明るく元気なら大雑把でおおらか、体も強い」というようなよく分からないレッテルを自分に貼っていたし、自分だけではなく自分を取り囲む世界も、単純に分けて受け取ろうとしていたんだろう。

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このおふたりの話が好きで番組を見ているのだけれど、この回のなかで吉川浩満さんが、加藤典洋氏の『戦後入門』を読んだときにどういうわけだか心当たりもないが自分の高校の中庭の景色が浮かぶということをおっしゃってその風景を描写しはじめた。「こんな説明誰にもわからないから意味がないことなんだけれど」というようなことをおっしゃりながらも説明をされていたのだけれど、それを聞きながらわたしは、”他のひとには価値もなく共有もできないもの”であっても、それを聞いた私の頭の中でそれが(おそらくまったくそのものとはかけ離れた姿ではあっても)色を塗るように構成されてゆく過程は全然つまらないものではない、ということを考えながらきいていた。
もしかしたら文書で書かれるよりもこうして耳で聞いた時のほうがより面白く感じられるのかもしれない。語り手が言い淀んだり、思い返すために立ち止まったり、訂正したり、そういう時間に沿いながらわたしの頭のなかにも絵ができてゆく。

ちょうど直前にニュースレターの『 me and you 』を読んでいて同じようなことを考えたということもあってそのことが印象強く感じられたのかも知れない。
パブリックにされるためにきれいに整えたりまとめたりするよりも、話している本人以外にはどうしたって手渡せないようなものについてただそのひとの主観で語られる、そういうようなことにわたしも興味があるんだなということを思ったし、もしかしたら多くのひとがいま、そういうものにふたたび愛着のようなものを感じているのではないか。

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さて、最近はsubstackに書いたり、notionに書いたまま放置したり、日記を書きたいなと思っているのにまずブログサービスをあちこち覗いたりして迷走している。
自分でサイトを作ればいいのだろうけれどそれがちゃちゃっとはできないのでとりあえずどこかいいところはないかな、文字の大きさや文章スペースの感じや月ごと/カテゴリごとに表示できる機能ははてながいいし、でももうこうしてあちこちに引越しするのも嫌で、ずーーーーっと積み重ねてゆきたい、そうなったときにはてなでいいのか…ニュースレターっぽいかたちにも惹かれるし、往復書簡がしやすいのはmediumだし…とりあえずnotionに書いて放っておくか…
と、どうでもいいことばかり考えている。
勉強するときにもどのノートにどのペンで書くかということばかり気にして勉強をする時間をなくすタイプだ。

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