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折り返し、ポプラ、のりちゃん

部屋を掃除していたら芍薬の花びらがはた、と床に落ちた。
目の端にうつっただけなのに、落ちたものがどのくらい水分を含んでいるかということが分かる。音のためだろうか、音はしたのだろうか。
手に取って、こんなに軽いものがあのような存在感を持って落ちたのだということに驚く。
しかしこのひんやりは、手に取る前から分かっていた。
落ちた花びらからもいい香りがする。
ついにその可憐な姿が終わる、と瞬間小さく胸が揺らぐ。けれど同時に咲きほころんだ花の終焉のはじまりを盗み見てしまったことにどきどきする。
だんだん膨らんでゆくつぼみを見るよりも、折返しを迎えた花のほうがじっと見ていられるような気がするのは、まだ命に溢れて高みに向かう花が眩しすぎるからだろうか。

昨日は冷蔵庫がおおかた空になったので中華スーパーに行った。
いつも買う野菜はだいたい同じ。
青梗菜かからし菜、キャベツや白菜、ときどきレタスなどの葉物、長ネギ、玉ねぎ、ピーマン色々、さつまいも(重要)、きのこ類いくつか、春雨、たけのこ、ときどきじゃがいもや人参やにんにく生姜、ズッキーニになす、トマト、おくら、もやし、キムチ、昨日は胡椒が切れていたので黒粒胡椒、フルーツの味のついたビール、果物のジュース、チョコレート2種、歌舞伎揚みたいなのとしょっぱいおせんべいに雪みたいにお砂糖がかかっているやつ、冷凍の肉まんとあんまん(色んな味があるので試し中。今の所タロイモのが一番美味しい)、トイレットペーパー、ケチャップ。
夜はおくらをさっと茹でて出汁をかけたもの、もやしのナムル、青梗菜と豚の挽肉をじゃっと炒めてオイスターソース風味、厚揚げとほうれん草のお味噌汁、雑穀ごはん、キムチ。
なんと多くのものを食べているんだろう。書き出して愕然とする。
なるべく大量に安く作られているものは買わないようにしている。
鳥も豚も生き物としてあまりにもひどい環境で育てられたものは買わない。
卵もにわとりがケージに一生入れられたままのような環境のものは買わない(フランスでは全ての卵に飼育方法が明示されている)。
でっかい船で底からぜんぶさらってしまうような漁法で獲ったツナ缶は食べない(それもちゃんと表示してある)。
買ったものは無駄にせず美味しく食べる。
いまわたしにできるのはそのくらいだ。

火曜日の哲学の授業(友人の大学の授業に潜らせてもらっている)のための宿題をしていたら、感覚が薄刃のようになって耳に入る音をすべてふるい落としたくなるような気持ちになったので、散歩に出る。
すぐそこに起伏が激しく緑の深い公園があるのだが、外出制限が解けたいまもまだ門が開いていない。
そもそも外出禁止令が出る前日、多くの人がぎゅうぎゅうになりながらこの公園でピクニックをしたので、大統領が「カフェやレストランが閉店してるからって公園に大勢集まるなど何のためにカフェを閉めたのかわからないではないか」と国民にお説教をしたのはもう半年も前のことのような気がするが実は2ヶ月前のことだ。
つまりそう簡単にはこの公園も再開するまい。
しかし案の定公園の周りには多くのひとが集まって、ペトンクをしたりシートを広げてビールを飲んだり柵にもたれて話をしたりしている。
懲りない。

柵の中に入れないから周囲をぐるりとまわることにした。
下生えの草から空を覆うような大木まで、鳥が入れ替わり立ち替わり鳴き交わし、蜜のように喉に張り付く甘い香りがし、湿った土の温度が肌に染みてくる。
時々立ち止まってぼおっと柵の中を眺める。
誰も私のことを気に留めたりしない。だから思う存分上を見上げたり、好きな時に立ち止まったり、耳を澄ませたりする。
したいことをしたいだけ。
日本では私は自意識が強くてこういうことがなかなかできなかった。
だから街に出るときにはいつもなんだかどきどきした。

途中自転車の練習をしているスパイダーマンとすれ違った。
パリは日本よりはまだ涼しいとはいえ、もう20℃もある。
全身タイツに包まれてヒーローもご苦労なことだなと思ったが、のちに再びすれ違った時にはマスクを脱ぎ、真っ赤なほっぺで水を飲んでいた。

いつも私はきょろきょろする。
色んなものを目に入れたいから。
ひとつも見逃したくない。
いつも何かを見逃すんじゃないかとはらはらする。
でもそんな風に焦らなくていいことも知っている。
限りなく見るものはあるし、考えはとめどなく浮かんで去る。
木の肌が迫ってきて、目をのりづけにされてしまう。風が吹くと、光が変わると、肌は限りなく変化してわたしを飲み込む。
圧倒されながら、溺れながら、こんな造形がほかにあるか、と驚嘆する。
どんな風に撮っても敵わないから写真を撮らなくなった。
そこにあるものをどうしたって捉えきれず、もう目で見つめて、カメラを通さずに目を離さないでいるほうが、今の自分が欲していることに近いような気がする。
誰かにこのおそろしい奔流を見せたいけれど、ポケットを探ってカメラを取り出した途端それは変わってしまう、そして私が押すシャッターは、わたしの胸に押し寄せ息を止めるこの手触りを、ほんのちょっとも残しはしない。


公園から家の方向に伸びている道を歩くといつものりちゃんのことを思い出す。
黒と白の毛並みの猫だ。
あんなに気遣いのできる優しい猫はあとにも先にもいない。
のりちゃんという名前は私が勝手につけた。陽に当たる黒い毛が、採れたての海藻みたいに緑に、茶色に光っていたからだ。
その付近の家の飼い猫だが、私とは散歩の折にたまにやあ、と会う仲だった。
のりちゃんは何年も前に死んでしまった。
なぜ死んだと知っているかというと、死んだのりちゃんを見つけたのは私だからだ。
のりちゃんはいつも、その道を通る私がのりちゃんを必ず探すということを知っていた。だから自分がこの世を去ったあとにも私が自分を探し続けることのないように、ちゃんと自分の死を報せてくれたのだ。
最後まで優しかったのりちゃん。


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