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1月25日からのメモ

1月25日

すっかり日々のメモの間が空いてしまった。
Covidにかかってしばらく日常生活が崩れていたということもあるけれど、元気になってからはなにかを読みたい、吸収したいような欲求がずっとあって落ち着いて文字を書くことができなかった。
『暇なんかないわ たいせつなことを考えるのに忙しくて』アーシュラ・ル=グウィン を読んだ。


たいせつなことを考えて、そのことを残しておきたい気持ちになった。
とはいえ相変わらず、というよりより一層、文章を書くことに時間がかかるようになった。
昔は文章を書くことに割く時間のことを考えなかっただけかな?今みたいにさて文章を書きましょう、とコンピュータを開くのではなく、歩きながら携帯を見もせずにボタンの手触りを頼りに文章を打っていた。
そうだ、歩く機会がとても多かった。稽古の帰り、バイトの帰り、人を待っている間、電車代をけちってひたすら長い距離を歩くことが平気だった。頭の中にうかんだ霞のようなものをぼんやりとからみ取っていって、かたちになった、と思ったら書き付けていたのだった。

今読見返すとどれもなんだか恥ずかしい。
今書いているものもそのうち恥ずかしくなるのだろうな。
自分でも読んで恥ずかしいものを、なぜ公開するのか。変な欲求だな。


1月26日

12:29
VISAのことで実家に頼み事をする。毎回戸籍謄本を送ってもらっているのだ。
私は両親が日本にいるから簡単に頼めるけれど、そうでない人にとっては海外に戸籍謄本などの公的書類を取り寄せるのがひどく難しい。日本の役所のあらゆる手続きが、海外に住んでいる日本人を想定していない。選挙もそうだし、銀行のアカウントのこともそう…。

15:06
仕事の依頼。
しかし場所がヴェルサイユで時間は夜。調べたら片道2時間ほどかかる。1時間半の仕事としても帰ってこれるのは深夜を過ぎる…しかも行きと帰りの行き方が変わってくるから最寄り駅に自転車で行けないとなると、この地域のこの時間をひとりでとぼとぼ歩いて帰るのはちょっと怖い。
ということでお断りしてしまった。
多少遠くても、せっかくお願いしてもらったことなら引き受けたいんだけど…ちょっと遠かった…!!


1月30日

Etel Adnanという作家でもあり美術家でもある方の自伝的小冊子を友人にもらったので、ゆっくりながら読んでいる。
彼女はレバノンで生まれ育ったが、当時のレバノンはフランスの統治下にあったので家ではトルコ語とギリシャ語で話し、学校ではフランス語を使っていたという。アラビア語を話すことは禁じられていた。
父親は自分の母語であるアラビア語を教えたかったが、どう教えて良いのか分からなかったのか、彼女は渡された文法書を意味も分からず書き写すことをしていたという。
その言語に手が届くような、でも意味ははっきりとは分からない、でも形をなぞることはできる、という体験が後の彼女の作品の一角に表れ出ている。

Etel Adnanについて解説された文章をAcademia.eduで見つけた。
以下はそこからの引用。

折からのアルジェリア独立戦争もあり、植民地支配を担ったフランス語で 自己表現することに違和感を持ったアドナンは、しばらくのあいだ書くこと自体をやめてしまう。
やがて、抽象絵画がアドナンにとっての突破口になる。言葉による言語の限界を痛感していたアドナンは、絵画の中に新しい、より自由なコミュニケーションを可能にする視覚言語を発見したのだった。
自らを亡命者と感 じるかどうかという質問に、アドナンはこう答えている。「そう感じてはいる。でもあまりに長いあいだその感覚が続いたので、それはもうわたしという人間の一部になっている」
頭や心の動きを開示することと、その横長の巻紙 は 、とても似ている気がする。絵画のようにぱっとひと目で把握するのではなく、順々に、視覚的に読まれるための巻紙。通常の本も、ひと目で読むことはできない。

ジャバラ式に折りたたむ形式の本を「レポレッロ」というのはドン・ジョヴァンニのレポレッロから来ていたのか!びっくり。
ただ、Etel Adnanに関しては日本や中国の横長に絵や言葉が展開していく巻物からインパイアされた部分も多いとのこと。

アドナンは時に、文章についての「ぼんやりした理解」に魅了されるという。
アドナンのブック・アートは、境界線を越える喜び̶ 「禁断の楽 園 」に近づく喜びを、表面化する。それはすなわち、故郷に帰るような感覚を体現していた。「実際に起こるまで予期することもなかったのだが、 (ブック・アートは)タペストリーのように複雑に紡がれたわたしの人生の、多数の織り糸と折り合いをつける作業」だったのだ。
翻訳とは、ひとつの言語を別の言語に置き換えることだけではなく、言葉による言語から視覚による言語へと置き換えることでもある。文章や文字や絵は、完全に仕上がった翻訳にはならず、「何かになろうとする感覚や流動性、途切れることなく変化する感じ」 を互いに伝え合う。
アドナンは自分のレポレッロを、引用した文章の著者に贈ったり、親しい友人にプレゼントしたりしてきた。
広げた状態で「オブジェ・ダール(美術工芸品)」のように本棚に置いたり、ギャラリーの壁に展示したりできる一方で、通常の本のように親密な出会いを楽しみながらひとりで読むこともできる。


ちょうどパリでも彼女のexpoをしていた。


Etel Adnanは別の出自を持つ両親に育てられ、生まれた土地の言葉を話す環境になかった。
ハンガリーからスイスに亡命して、そこでフランス語で作品を書いたアゴタ・クリストフにとっては、フランス語は自分が生きるためになんとしてもしがみつかなければならなかった言語であり、同時に、愛する母国語から自分を引き剥がす忌むべき存在でもあった。

私は外国語に苦労してはいるけれど、無理矢理に母語から離されたわけではないから、当然彼女たちの感触を理解することはできない。でもこうして外国語と格闘する…格闘とまで言わなくても、折り合いをつけようとする体験を読むことに興味が湧いたのはフランスに来てからだ。
分からない言葉に出会った時に改めて自分が自然に習得してきた「ことば」について考える。もしかしたらかつてした言葉を習得するその過程を、もう赤ちゃんではない自分が赤ちゃんの時代と同じように、または別の方法で辿ることに興味があるんだと思う。

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