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●2021年6月の日記 【中旬】

6月16日(水)

家のドアを開けるなり山鳩と目が合う。5月くらいから一羽の山鳩がうちのアパートの階段の手すりを指定席にしている。わたしと目が合ってもつーんとしている。が、階段を降りるために近づくとさすがに飛んでいってしまう。

山鳩(別名キジバト)がすきだ。細い首から胸にかけてのラインがシュッとしていてすてきだし、なんといっても鳴き声がいい。

いい。

うちの外階段に姿を見せるのはいつも同じ個体のようだ。たまに少しふくよかな別の個体を連れてきて縦ノリのダンスを踊っていたりもするが、基本ひとりでつーんとしている。近くに住んでいるのだろうか。

アパートの外階段といえば最近ほかにも妙なことがあった。踊り場に大量の小枝が散らばっているのだ。最初はわたしの子どもがやったのだとおもった。夫に連れられて行った大きな公園で枝集めにでもハマったのだろうと。しかし夫に確認すると「いや、ちがうよ。おれもなにかと思ってた」とのこと。子どもも枝を見て不思議そうにしている。うちの子でないとすると、おとなりの小学生が工作の材料集めでもしている?いや、あんなにばら撒くか?

ちょっと観察を続けていると、小枝は端によけても夕方にはまた散らばっていたり、子どもでは絶対に手が届かない非常灯の上やら高いところにも数本乗っていることがわかった。

「……山鳩だ!」

なんのことはない、これも山鳩マターだったのだ。

山鳩はアパートの外階段の上に巣を作ろうとしている。高いところにスペースが足りないのか枝のほとんどは階段に落ちてしまっている。難しそうだし、できたとしても夜の蛍光灯が眩しすぎるだろう。でも同じ骨組の建物に山鳩一家が住んでくれたら素敵だなあとおもう。今後とも進捗を気にしていきたい。

6月17日(木)

子どもと同じ組の幼稚園児たちと話す機会があった。ちょっとした係でクラス活動に参加した形だ。年少(3〜4さい)の子どもたちが20人も集まっているところは尊い。涙ぐむほどに、尊い。なにも泣くこたないだろうとおもうかもしれないが、それにはわけがある。聞いてほしい。

わたしの子どもは明らかに幼稚園を楽しんでいるようすだ。迎えに行っても「はやいね!なんで?」と責められる。まったく帰ろうとしない。園舎に住みたいと言わんばかりだ。それなのに、朝の登園時間には行き渋る。全力で、行き渋る。服を着るのを拒絶したり、隙間収納に逃げ込んだり、あの手この手を使って家から連れ出されまいとする。根気強くあばれつづけて実際に休みを勝ち取ったこともある。行ったら行ったで全力で楽しむのにどうしてそこまで、と思わなくもないが、「行ったら楽しいのはわかってるけどだるい。行きたくない〜」なんてことはわたしの学生時代にもいくらだってあった。そしてだるさのままに休みまくっていた。子どもをまったく責められん。
そんなだから今朝もすったもんだあって、30分にわたる格闘・説得・ごまかし・なだめすかしタイムを経て子どもを園に連れていったのだ。だめかと思ったがなんとかなった。
朝、同じ年少組の子どもたちがみんなわたしの子どものようになるわけではない。それでも幼稚園に通い始めたばかりの3、4さいの子どもはどうしたってちょっと不安定で、親御さんはみんな程度の差こそあれ、子どもをなだめすかしながら登園させている。
そのようにしてやってきた子どもが20人。そうおもったら、奇跡のような気がしたのだ。尊い。尊いよ。みんな輝いてる。

まばゆい光の中から子どもたちはわたしに話しかけてくれて、その内容は妖怪の話、呪術の話などだった。

6月18日(金)

仕事先の台東区まで自転車で行った。子どもを乗せて出かける用の電動自転車ではなく、出産前から所有しているミニベロだ。

電動自転車を使い始めて以来、こちらはずっと放置してしまっていた。それを先日ひさびさにメンテナンスしてみたらどこも壊れてはいなくて快適に走れることがわかった。うれしかった。

自宅から台東区まで1時間くらいとみて出発した。30分で着いたからびっくりした。ママチャリでない自転車って漕げば漕ぐだけ速く走るんだ。ふーん。忘れてた。すごいな。コメットっていうだけある。

上野公園の駐輪場にコメットを停めて、木陰の岩に座って汗が引くのを待った。身体に「快」が満ちていた。運動を目的としない運動は性に合っている。移動を目的とした運動。

道をおぼえたから帰りはもっと早かった。

そのあとで子どもを迎えにいくのに電動自転車に乗ったら感覚がおかしかった。乗用車のあと軽トラ運転するのと同じ感じ……たぶん(普通車運転免許持ってない)。

6月19日(土)

ベランダのいちごが実りの季節を終えて、ベランダで何も収穫できないのがさみしい。夏が来る前にミニトマトでも植えるか。ということでミニトマトの苗を探しに出かけた。

町じゅうの花屋をめぐった。どこにもミニトマトの苗は置いていなかった。たぶん出遅れたのだとおもう。

しかたがないので100均でミニトマトの種を買い、蒔いた。昼寝から起きてきた子どもにもパラパラしてもらった。

ついでにパクチーの種もつぶして蒔いた。

種を蒔いたら、蒔いたところの土が気になって仕方がない。

しきりにベランダをのぞくわたしの背に子どもが「トマトのみみ、でる?」と話しかけてくる。芽(目)が出る→なら、耳も出るだろう。ということらしい。

6月20日(日)

ダンゴムシを触った。手の甲を歩かせるとたくさん生えた細くて素早い足がこそばゆかった。詳細に注目してみると足が白い糸のようであったり、背は見た目から持つ印象よりも柔らかかったりと、意外なことが多かった。1匹であれば可愛いとさえ思った。

そのダンゴムシは子どもを連れて行った公園にいた。公園にいたよその子(2さいくらい)が植込みのダンゴムシをつまんで持ってきてくれた。「はい、ダンゴムシ」。
彼女はとても感じのいい子どもだったし、わたしが受け取るまで何分でもつまんで差し出している構えだったから、怖いのをこらえて受け取った。手に乗せて2分もすると怖くなくなった。噛まないからアリに這われるよりいいな、と思った。

よく知らず、触ったこともなく、遠目に見ているだけなら、だいたいの生物は怖い。虫のほとんどが怖いだけでなく、わたしは犬だってだいたい怖い。あまり触れたことがないから怖い。何をされるかわからないって思う。猫はかわいい。すきだ。ともに暮らしたことがあって、習性とか取りがちな行動を知っているからだ。

よく知らない生き物をよく知らないままに怖がり遠ざけ、ときには忌み嫌うこと。その態度は確実にわたしの了見をせまくしている。不気味なもの、怖いものを遠ざけ、自分と同質のものしか目に入れたくないと願う、これは何かに似ている…。日ようびの夕方の公園で手にダンゴムシを乗せたわたしは、ピーンときた。きっとこの態度と同じ地平に自然破壊もあるし、人種差別もあるのだ。

話せば/触れれば/知ってしまえば、そう簡単に嫌いにはなれない。ダンゴムシに触ったことでわたしの中の余白のようなものが拡がる音がした。

こうやって公園でわたしは2〜3さいの育ちをやり直しているのかもしれない。なにが育児だ。わたしの子をはじめとする2〜3さいのみなさん、日々わたしを育て直してくれてありがとうございます。

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