2 世界の鍵

 大学に入って最初の八月……十八歳の夏だった。

 たいして仲良くもなかった友人の、散らかった八畳の部屋に、俺とその日初めて会った女の子は、二人きりで壁に背中を付け、並んで座っていた。深夜で、俺たちをその場所に呼んだ俺の友人とその高校の同級生という軽そうな子は、クスクス笑いながらどこかへ消えた。

 置き去りにされたほうは、茶色のショートボブで、日に焼けた、健康的な子だった。陸上をやっていると聞いて納得の、若い草食獣のような身体つきだった。目も口も大きく、愛嬌のある顔で、普段であればたぶん明るい子なんだろうな、とその子が一方的に話し続けるのをあいまいな顔で聞きながら思った。

 その子には、ずっと憧れていた俺と同い年の陸上部の先輩が居たらしく、卒業式の日に想いを告げたところ、家に連れて帰られてそのまま抱かれた。その子は初めてだった。でも、何度かそんな風に会って抱かれて以降は、段々と先輩の態度が冷たくなり、連絡すると怒るようになった。やがて無視されるようになり、最後は着信拒否された。良くある話だ。

「避けられてますよね」

「そんなことはないと思うよ」

 その子は俺の無難な返事になんて何も意味が無さそうに、「やっぱり避けられてますよね」と呟いた。「わたし、可愛くないから」

「そんなことはないさ」

「きっと、居ても居なくてもいいんです。わたしなんて」

 すでに日付は変わっていたが、ちっとも眠くなかった。

 俺があまり喋らないからか、それ以外の理由か、その子はひとりでえんえんと話していた。話の合間に、何度も何度も「わたしは可愛くない」「魅力がない」「居ても居なくてもいい」「もっと可愛く生まれてきたかった」を繰り返し、そのたびに俺は虚ろな言葉で慰めた。

 高校生活の二年半をそっくり吐き出すまで彼女の話は続いた。そして、吐き出してしまうと、もう俺たちの間に会話は残っていなかった。俺たちはどこへも行けず、ただ、その夜の底に黙って座っていた。

 やがてその子は、何かを決心したようにそっと立ち上がった。

 俺に背を向けたまま、部屋の真ん中の敷きっぱなしの布団の上に立つと、ゆっくりと薄い色のジーンズを脱ぎ始めた。静かな部屋に、ベルトの金具を外す金属音が響いた。指を両脇に入れてゆっくりと下げていくと、その子の雰囲気に似合わない、飾りの凝った水色の下着に包まれた丸い尻が露わになった。白いTシャツの背中にくっきりと見えていたブラジャーのラインと同じ色の下着だった。

 左足を曲げ、次に右足を抜き取った。童顔なのに、大人びた綺麗な脚だと思った。腰は驚くほど細く、その細さが尻の女らしさを誇張していた。その子の動きに合わせて、太ももの付け根のへこみが艶めかしい陰影を作った。膝の裏には少しだけ赤茶けた染みがあった。それでも瑞々しさに溢れた美しい脚だった。四カ月前までは誰も触れたことがなかった身体だ。

 下着だけの下半身をさらしたその子は、ゆっくりと座りこみ、少し迷ったあと、音を立てて横になった。自分の身を放り出すような感じの音だった。下着の隙間から陰毛の固まりがわずかに見えた。横になると、きゃしゃな肩幅と腰の丸みが強調され、ひどく色っぽかった。話している時は幼く、中性的にすら思えたその子の下半身には、思いのほかはっきりとした女の色気があった。身体を動かすたびに、目的をもって鍛えられた筋肉が、美しい流れを造った。この身体を、その先輩とやらは好き勝手に汚したのだと思った。

 そのまま、お互い何も話さないまま、あやふやな時間が過ぎた。

 部屋のどこかにある時計の秒針の進む音が響いていた。エアコンの静かなうなりが絶え間なく響いていた。あらゆる小さな物音が耳に感じられた。その子の心臓から送り出され、全身の血管を巡る血の流れすら聞こえそうだった。それは俺の身体を流れるものの音かもしれなかった。その音は、狭くて柔らかなものの中を、突き進むように強引に、ぐいぐいと一方的に押し進む音だった。

「……やらないの?」

 目の前で横になった背中が唐突に呟いた。

 溌溂とした10代らしさは消えている。一気に10も20も年を取ったように感じられた。さっきまでとは別人のような、乾ききった声。

「やらないよ」

 反射的に、俺は答えた。すごく惨めな気分だった。そして、段々と腹が立ってきた。ヤリ逃げした無責任な先輩にひどく腹を立てたし、自分を傷つけるようなことばかりしてしまうこの子の不器用な生き方にも腹を立てた。自分自身にも腹を立てた。何より、性欲に対して一番腹を立てた。世界中の性欲に、だ。あんまり腹が立ちすぎて、なんだか無性に哀しくなってきた。泣きそうになったと言ってもいい。

 言いたいことは色々あった。でも口が回らなかった。あまりにも早く、キッパリと否定し過ぎて、その子を拒絶したような形になってしまい、傷つけたんじゃないかと、俺は心配になった。その子の肩が震えだし、丸めた背中の向こうから、押し殺した嗚咽が聞こえてきたからだ。

 傷を負った獣のような声でその子は泣いた。俺は不思議に冷徹な気持ちでそれを眺めていた。

 この子を泣かせてるのは俺じゃない。その先輩だ、と自分に言い聞かせた。意識が氷漬けにされたような奇妙な心境のまま、その子の震える背中や、剥き出しの下半身や陰毛をずっと見つめていた。俺の若い股間は、怒張して、はち切れそうになっていた。

 流れるのをやめてしまった時間の中。凍りついた意識から切り離された性欲だけが、行き場を無くして煙のようにフワフワ揺れていた。自分から切り離された性欲を冷静な気持ちで眺めるのは、他人行儀で何とも言えず妙な気分だった。俺の勃起は、他人の勃起だったし、先輩の勃起だった。

 この子は、どうしようもなく、自分が嫌いなんだ、と思った。誰かに求められたい、と思っている。肯定されたいと叫んでいる。わたしはここに居る、と泣いている。この子を泣かせた先輩は、この子がいま、別の男の前でこんな姿になっていることを知らない。多分、考えもしない。この子の中の闇を、知ろうともしていない。

 どのくらい経ったのかは分からなかった。時間はとうに意味も形も失っている。その子の背中越しに静かな寝息が聞こえてきた。きゃしゃな背中が静かに上下していた。俺は、そっと立ち上がり、音を立てないように部屋の押し入れを開いた。中から比較的、洗濯した後の匂いが残っているタオルケットを探して、その子のむき出しの下半身にかけた。そして、玄関から表に出た。

 夜が明けていた。手垢の一切ついていない、新鮮な夏の朝だ。気の早い蝉の声が聞こえた。どこか薄情な声で雀が鳴いていた。太陽が黄色かった。夜気と暑気が絶妙に交じり合っていた。そこは街路樹の多い街で、新緑が頭上でキラキラと光っていた。光と色彩が混然一体となって、それは、緑の霧のように俺を包み、覆っていた。

 駅までの道を歩きながら、俺は、「他人を大事にしない人間」の存在について考えていた。考えたくもないのに頭から離れなかった。

 そんな人間は確実に居る。取り囲まれていると言ってもいい。

 でも、そういう俺だって、ついさっき過ごした夜の中で、他人を大事に出来たか、と問われれば自信はない。俺はまだ若く、何一つ自分の選択に確信は持てなかった。これから俺が生きていく世の中に、恐怖を感じた。いっそ、あの子の中に無理やり入り込み、無茶苦茶に汚して、自分も汚れてしまえばよかったんじゃないのか。胸の中には、感情の欠片と、切り離されたままの性欲が、残り火のようにくすぶっていた。

 空を見上げると、黄色い太陽から溶け出した光の雫のように、山吹色の鍵が降りてきた。

 だ。

 俺はその鍵を手に受け、そのまま衝動的に、すぐ脇を流れる汚い川へ投げ捨てようとした。そして、振りかぶった腕を耳元で止めた。

 俺はまだ温かみの残るその鍵を握りしめた。歯を食いしばって。ありったけの力で。そして、しばらく考えてから、心の中の、目につかない場所にしまい込んだ。それから、出勤するサラリーマンに混じって、朝の道を黙って歩いた。

 俺はどうするべきだったのか。何を話すべきだったのか。それは未だに解けない世界の謎のひとつだ。

 ◆

 今日までに、様々な場所で、いくつものを手に入れた。

 名前も知らない女の子から告白されたとき、漫画家になりたがっていた友人があっけなく死んだとき、同級生の女の子が弾く『亜麻色の髪の乙女』を聞いたとき、妹みたいに思っていた美しい少女が部屋で暴れたとき、魔女から紅い薔薇を受け取ったとき、コロッセオのローマン・コンクリートの上に寝転がって青過ぎる空を眺めたとき、父が消えたとき、祖母が死んだとき、母が死んだとき、女が居なくなったとき、鍵はいつも俺の前に現れた。

 はいつも俺の前に現れた。

 は単体では意味を為さない。鍵穴があって初めて意味を持つ。は使われることなく心にしまい込まれている。鍵穴がどこにも見つからなかったからだ。このまま放っておけば、いつかは風化して消え去ってしまうだろう。土の中の骨のように。死にかけた老婆の夢のように。深海で朽ちていく沈没船の宝のように。

 ◆ 

 あるとき、俺は、最初の鍵穴を見つけた。それは意外な場所にあった。この18歳の夏から、遥かな時間が過ぎ去ったあとだった。

 唐突に目の前に現れた鍵穴。

 そこに、俺は恐る恐る持っていた鍵を差し込んだ。ペンが紙の上を走り、キーボードはカタカタ鳴った。歌が、言葉が、文章があふれだしていた。

 それは、拙く、幼稚で、赤面してしまうほど覚束ない手つきだった。いい歳になった男がするようなことじゃない。間違っている、と自分でも思った。でもは出番を待ちわびていたようにカッチリと回った。それは運命的だった。魔術的ですらあった。蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶように。歌姫が龍を鎮めるように。鍵の最もあるべき姿は、鍵穴に差し込まれることなのだ。どうしようもなく恥ずかしくても、それは認めるべきだ。俺は文章を書くべきだったのだ。もっと早く。もっと素直に。感じるままに。

 誰かが問う。

 お前はなぜ小説を書く? どうせそんなに上手には書けない。自分が一番よくわかっているだろう。そういうことは、それが得意な人間に任せておくべき事じゃないか?

 俺はこう思う。

 世界の秘密を解き明かしたいからだ。

 自分の中にあるを、それが風化して滅んでしまう前に、一本でも多く鍵穴に差し込み、その結末を見届けたいからだ。

 頭でいくら考えても分からない、誰かが書いた本には載っていない、「なぜ」や「どうして」や「なんの為に」の答えを知りたいからだ。

 俺にしか出来ない、自分だけの探求。

 真理を求める彷徨。

 鍵穴を創るための儀式。

 俺は俺の顔をしたそいつに逆に問う。

 俺が俺で居続けるために……それ以外の理由が必要なのか?

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