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【ひと夏の妹】#35/46 ふたりの夜

 それは、少し肌寒い夜で、衣類ダンスの奥から長袖を引っ張り出した日だった。
 俺にとって、生涯忘れられない夜。
 俺はアパートの自分の部屋でソファに腰掛けて、古い小説を読んでいた。
 読み始めたとき明るかった窓は、チャイムが鳴って本から目を上げたころには、もう濃い紺色になっていた。読書に集中していたせいもあって、驚いた。普段、チャイムなんて宅配や郵便でしか鳴らないし、今日来る予定もないはずだ。
 本を伏せてソファから立ち上がり、玄関ドアへ向かった。
 なんとなく身構えてしまう。
 開けると、水色の襟付きワンピースという季節外れの服装の女の子が、蛍光灯の灯りに照らされて立っていた。細い腰を絞るように、おなかのところに紺色の大きなリボンが付いている。
 最初、本気で、『夏の妖精』が忘れ物を届けに来てくれたのかと思った。水泳ゴーグルとか、虫かごとか、ビーチサンダルとか。
 すぐに、とんでもなく可愛い女の子だとわかり、そしてそのあと、それがリンなのだと認識した。
 リンは、一瞬とてつもなく嬉しそうな顔をすると、すぐに笑顔をひっこめて、むしろムスッとした顔になった。
「はいはい。ごめんなさいよー」
 猫のように俺の横をすり抜け、中に入ってくる。身体の動きに合わせて、夏みかんを思わせる匂いが移動してきた。
 白いサンダルをわざとらしく乱暴に脱ぐと、部屋をまっすぐ突き進み、ソファに座りこむ。大げさな動きのわりに音はぽふっと軽かった。
「お、おい」
 やっとショックから立ち直り、ドアを閉めた。
「おまえ、なんで俺の家が?」家は教えていない。
「バイクで探した」
 物珍しそうに部屋を見回しながら、あっさり答える。
「探したって……」
 確かに、俺のバイクは車道に面した目立つ場所に止めてある。でもそれだけで俺の家を探すなんて無茶にもほどがある。「海辺の街の丘の上に建つ眺めのいいアパートだ」としか言ってなかった。見つけるまでに、一体どれだけ歩き回ったか、想像もつかない。
 何気なくリンを見ると、座椅子とそう変わらないような低いソファに座り、膝と膝をくっ付けてハの字にした脚の隙間から、水色の可愛らしいショーツが見えた。
 心臓がごぐんっと跳ね、息が詰まった。
 慌てて目をそらしたが、部屋の真ん中に突っ立っていると、どこに居てもスカートの中が見えてしまう。太ももの裏の白さと、艶めかしい付け根の筋から目が離れない。
 慌ててキッチンチェアに座った。そこからならリンのショーツは見えなかった。
 しばらくぶりに会うせいもあるかもしれないが、めちゃくちゃ緊張する。
 ちょっと前の俺たちなら、「おい。パンツ見えてるぞ。隠せ」くらい言えたような気がするのに。展望台の一件もあってか、明らかにそんな雰囲気じゃない。
「髪伸びたね」リンが俺を見て嬉しそうに言った。「タキくんでも長袖とか着るんだね」
 冗談っぽく言って、俺の薄地のⅤネックのニットを見て目を細めた。
「おまえ……よくここ見つけたな」
「めちゃくちゃ大変だった」
「……いや……そりゃそうだろ」
「本屋のときよりずっと大変だった」
「本屋?」
「のどかわいた」
「なんでいきなり……」
「のーどーかーわーいーたー」
 俺はため息をついて立ち上がると、冷蔵庫を開けた。夏場は毎日作っていた自家製の麦茶は切らしていた。仕方なくアパートを出て、近くにある自販機まで行き、コーラとお茶のペットを買ってきた。一度、外の空気で頭も冷やしたかった。
 ドアを開けると、俺が読みかけていた本をリンが開いていた。
 相変わらず丸見えのショーツを見ないように目を逸らしつつ、テーブルにキャップを緩めたコーラを置く。
 リンが、本に指を挟んで畳み、タイトルを読み上げた。
「『絵のない絵本』……」
「ああ。アンデルセンだ。『人魚姫』のひとだよ」
「綺麗な本だね」きらきらした黄色いカバーをそっと指で撫でる。「それにすごく素敵なタイトル」
 リンは大切な手紙でも読むような目でまた本を開いた。
 そして、ページに目を固定したまま、思い出したようにつぶやいた。
「……ねえタキくん」
「ん?」
「今日、なんの日だかわかる?」
「今日?」なんの日だろう。普通の土曜日だ。「わからない。なんの日?」
「今日ね」とリンはとっておきの秘密を告げるように言った。「誕生日なんだよ。わたしの」
「………………」
「十四歳に、なりました」

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