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物心つく前から鳴っていたタンゴ
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物心つく前から鳴っていたタンゴ

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特にキッカケがあったわけではないから覚えていない。とにかく昼下がりに父が自分の部屋として使っていた応接室から聴こえてくるタンゴの音楽 ~跳ねるようなピアノとバイオリン,そして重厚なリズムを刻むバンドネオンの音~ が我が家の日常だった。

 ここで少し解説しておこう。タンゴという音楽は1800年代後半にアルゼンチンの港町であるボカ地区の酒場で生まれた,移民や荒くれ者の船乗りたちの慰めとなった「歌と踊り」の音楽である。決して由緒ある素性ではないが,Jazzがまたそうであったようにタンゴもまた人を強く惹きつける。強烈な2拍子のリズムはキューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツ、アメリカのフォックストロット、アフリカ起源で南米に広がったカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生まれたミロンガなどが混ざり合って生まれたと言われている。

 そしてタンゴになくてはならない「バンドネオン」という楽器。同じ蛇腹楽器のせいか,よくアコーディオンと間違える人が多いのだが全く違う物である。右手38左手33の合計71個のボタンがあり,鍵盤と違い「音階の規則性は全くない」配列(ディアトニック方式)である。もちろん右手と左手は全く別の配列。また同じボタンを押していても,蛇腹を開く時(アブリエンド)と閉じる時(セランド)で違う音が出る(ライニッシュ方式)。タンゴではこのディアトニック方式+ライニッシュ方式のバンドネオンを使うのが主流である。右手の開き(アブリエンド)だけでも1オクターブ目と2オクターブ目の運指は全く別物。よってCmajor(ハ長調)だけでも右手2種類(2オクターブ)+左手2種類,それらの開きと閉じ(×2種類)と8パターンを覚える必要がある。これを全12調で行うと96パターン。バンドネオンが「悪魔の楽器」と言われる所以である。

 戦後しばらくした昭和30年代(1950年代)の東京の夜の街はアルゼンチンタンゴであふれていたらしい。バンドネオン奏者であった父は今でいう「ロックに憧れて上京した若者」といったところか。銀座や有楽町や新宿などの,当時は「ポルテニア音楽」と称されていたタンゴで有名なお店に出演していた。当時の日本で最も有名な楽団と言えば,早川真平率いる「オルケスタ・ティピカ東京」であろう。加えて本場アルゼンチンでもタンゴ歌手として一躍スターになった藤沢嵐子と共に,国内の人気をさらっていた。その他にも坂本政一が率いた「オルケスタ・ティピカ・ポルテニア」や西塔辰之助の「オルケスタ・ティピカ・パンパ」や相馬昭三の「オルケスタ・ティピカ・オルガニート」など多くの楽団が人気であった。なお「オルケスタ・ティピカ」というのは,バンドネオン3~6,バイオリン3~6,ピアノ,コントラバスを加えた合計10人くらいの編成の楽団の事を指す。

 まだ20代だった私の父は上記の「ポルテニア」や「オルガニート」でバンドネオン奏者として活躍していたらしい。当時の音源が残っていないのが残念だが。しかし1960年代に入り,プレスリーやビートルズが若者の音楽になるとタンゴの火はあっという間に消えてしまう。

 そんな東京での音楽活動に希望が見いだせなくなったのか,地元の両親から呼び戻されたのか,父はバンドネオンを抱えて生まれ故郷である名古屋に戻ってきた。そして母と結婚して2人目の息子として私が生まれることになるのだが,冒頭に書いたように私の家は少し変わっていたかもしれない。そんなに裕福だったわけではなく,どちらかと言えば中の下くらいの家庭だったはずであるが,例の応接室にはDIAPASONという国産メーカーのアップライトピアノがあり,当時としては高級志向の本格的オーディオセットがあった。プリメインアンプとチューナーはSONY,スピーカーは30cm3wayのPioneer,ターンテーブルはTechnics,カセットデッキがTRIOで何とTEACのオープンリールまであった。

 そして当時NHKやホテルで演奏活動をしていた父は,仕事がない時はいつも両切りピースかパイプをふかしながら部屋に籠ってバンドネオンを弾いていた。しかし,父が弾く「バンドネオンの曲」を聴く事はただの一度もなかった。父はメトロノームに合わせて,全てのスケール(音階)練習をひたすら繰り返すだけだったのである。なので正確には物心つく前から鳴っていた音楽とは,ひたすら無限に繰り返されるバンドネオンのスケール練習の音だったのだろう。



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