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宇佐 大元神社

11月最終日

めちゃくちゃハードな日々を超えて
少し隙間が出てきた頃に
このnoteのことを思い出しました。

昔から、器用だと言われ続けてきましたが、
歳を重ねるほどに
器用さから遠ざかる日々
チャチャチャッと、なんでもかんでもできなくなってしまったようです。
なかなか更新がままならず、気がついたら11月最後の日。
今朝はなんとなく自然の流れで、noteに向かっています。


この間(かん)
久しぶりに福岡に行き
今回は、ようやく、大分にも入ることができました。
宇佐神宮の本宮 大元神社


登山口の看板

この登山口からまさか1.6キロも山道を歩かされるとは思ってもいませんでした。
いきなりの急坂に、何度もへこたれそうでした。


大地にしっかりと根をはる樹々の間を抜けて

ようやく石畳が見えてきた頃には、すでに3時を回っていました。
そんなに時間はないなぁと思いつつ拝殿を回ると、


拝殿裏の禁足地の入り口

鳥居の向こうは禁足地でした。
古い苔むした鳥居のそばには榊が捧げられ、ここと向こうの世界を分けているようです。
古い古いお山。
この禁じられた場所も、古くは人が入り、そしていつでも誰でも祈り続けてきたのだろうというような空気感が漂っていました。
改めて場の持つチカラを感じたトキトコロです。

さらに
大分。
なかなか入れてもらえなかった場所です。
台風が来たり、時間がなくなったりで
辿り着けなかった場所でしたが、
今回、ようやく、入り口に立つことができたようです。

が、
帰りに宇佐神宮に立ち寄る予定が
思わぬハプニングで時間がなくなってしまいます。


大元八坂神社

でありながらも
とっぷりと暮れゆく夕日に包まれた、安らぎのひとときではありました。

今年1年、鹿児島に通いながら、
隼人を調べ続けてきて、
そういえば、宇佐と何か関係があったことを思い出しました。
今回は行けませんでしたが、
宇佐神宮側の百体神社の説明はこのように書かれています。

百体神社は、大和朝廷に征服された南九州の豪族である隼人の魂をなだめるため、奈良時代に創建された小さな神社である。ここは宇佐神宮の末社で、勅使街道の途中、化粧井戸や凶首塚古墳の東にある。
古来より南九州に住む豪族であった隼人は、大和朝廷が支配を南九州への拡大したことに抵抗し、720年に反乱を起こした。

朝廷の軍勢が隼人征伐に向けて出発したとき、八幡大神は守護として神輿に乗り出御した。戦いは激しく、城を築き抵抗する隼人に苦戦を強いられた朝廷軍は、傀儡子という人形による演劇で隼人を魅了し、油断した隼人軍を討ち取ることに成功した。朝廷軍は勝利の証として百個の首を持ち帰り、この地に埋葬したと言われている。反乱の後の数年間、疫病と飢饉が宇佐の地を襲い、人々は隼人の怨霊が原因だと信じた。

殺生の罪を悔い、仏教に救いを求めた八幡大神は、隼人の慰霊のため「年ごとに放生会を修すべし」と告げ、失われた隼人の御霊を祀り、その魂を鎮めるために百体神社が建立された。

宇佐市ホームページ

傀儡子 くぐつし 女性は傀儡女 くぐつめ
この人たちも 隼人と同様 古部族だと思っていましたが、
そうではないのか…
または、宇佐側について、隼人を懐柔させるために利用されたのか、
疑問が生まれます。

この大分の旅でいただいた疑問は、
来年一年間 福岡講座で福岡に通いながら、自分なりの答えを探す幕開けですね。
そこには、今年、行かせていただいた鹿児島という場の履歴が
「そうさせるモノ」として私の中に存在しているのでしょう。

鹿児島から、宮﨑、そして大分へと流れは一直線でした。
場所場所に辿り着くのも、順番があるのでしょうかねぇ。

11月も終わります。

いろんなことがあった月でした。
明日から、12月。

器用に生きていけるように精進します。




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