見出し画像

【雑記】#10 この「好き」、極めなくてもいいですか?

前に紹介させていただいた(昔だったらトラバした、とか言うのかな?)文章で、

「凡人こそ好きを極めよ」

みたいな文言がありまして。
(せっかく公式サマが引用しやすいようにしてくれたのに全力で無視していくスタイル)


それで、「自分の、『好き』……?」と思いを巡らせてみたのです。

しかしながら、思い出すのは思い出したくもない「自己分析」とかいうイニシエーションや(ホント精神によろしくないからやめてくれ)、「あー、こういうこと好きだけど、結局下手の横好きの域を出ないしなー」という自己肯定感のカケラもない諦めばかり。

いやーどうしたもんかな。

「好き」は最後のフロンティア、だけどキケンな諸刃の剣

でもね、「下手の横好き」ってけっして悪いものではないと思うんですよね。
「プロじゃないですし、我流ですし独学ですしおすし……」でいいじゃないかと。

「好きこそものの上手なれ」って言葉もあるように、SNSをきっかけにたくさんの人から注目されたり、新しいステージ(例えば同好の士とつながるとか、技術のレベルアップとか。仕事につながったりもあるのかな。いいな羨ましいなオイ)に到達したり。

ただ、今のようなことを「下手の横好き」の光の面とするならば、「下手の横好き」の暗黒面も残念ながらあって。
「好きだからいいでしょ? このくらいできるでしょ? プロじゃなくて趣味なんだからさ、無償でだってこういうことやれるだけで嬉しいんでしょ?」
と無理な要求をする人が現れてしまったり、SNSによってもたらされた「他の人」という概念に苦しむことになってしまったり(例えばいいねが少なくて心が折れちゃうとか、……まあこのへんは例を挙げていくと己の暗黒面がスプラッシュしそうなのでやめときますわぐぬぬ)。

荒ぶる厨二心を抑えつつそんなところまで考えて、思い至ったのは

「誰の目にも触れさせず、一生極めない「好き」を持っていたほうがいい
……のかもしれない」

ということです。

ただただ好きを楽しめ…たら幸せだけど、ね

とにかく「好き」を純粋に楽しみ、他の人には惑わされない最後の砦。
そんなものがあってもいいのではないか、と。

今書いているこの文章はこんなにグッダグダですが、わりと姿も形もない他の人に惑わされて書いてますもの(なのにこの有様かよ)。
それはそれで楽しいのですが、ただただ自分が好きなことだけをする、何も気にしないというのも、なかなか楽しいです。

ちなみに自分のそんな「一生極めない『好き』」は、裁縫と編み物です。
何よりも単純作業を繰り返すことに魅力を感じているので、出来上がるもののクオリティは二の次ですし、なんか技術的に難しいものを作ってレベルアップしたいとも思いません。
強いて言うなら、機械のように正確に縫い目や編み目を揃えたい。
裁縫はずっと並縫いだけできればいいし、編み物はずっと表編みと裏編みだけできればいいのです。

でも、もし、これで作ったものを他人に見せて、ラッキーなことに褒めてもらったとしましょう。
「よし、今度はもっとすごいの作ろう」なんて思ってしまったら、そこから闇堕ちする確率が跳ね上がりますから。
表編みと裏編みだけできりゃいいと言ってた奴が急に縄編みをやってみたり、かぎ針に手を出したりし始めちゃいますもの。
で、きっとありもしない他人の期待に辛くなったり、「私のも作ってよ」とか家族に言われちゃったり、中途半端に知識と技術をつけて、他の編み物やってる人にあれこれ口出ししたくなったりしてしまうんです(うーん自戒自戒)。


極めるべき「好き」と、ただ楽しむべき「好き」を見つけたい

「他の人がいるからこそ張り合いがあるんじゃないか」という『好き』は、そのまま極めていけると思います。

というか、たぶんそれこそが極めるべき「好き」です。

しかし、その「好き」を極めていく道中で辛くなったときに助けてくれる、「誰のことも気にしなくていい。私が楽しければそれだけでいい」という『好き』も、最後の砦として持っていると、気持ちが楽になるのではないかなーと思います。

さて、自分も極めるべき「好き」を探して、凡人へ昇格するとしましょうかね。

読んでいただき、誠にありがとうございました。 サポートいただけますと、中の人がスタバのラテにワンショット追加できるかもしれません。