料理のおいしさについて考えた。

私が常々疑問に思っていることの一つ

「私が作る料理をおいしいといって食べてくれる人たちは、何をもって料理をおいしいと言って食べているのか?」


私は食べることが好きだ。

私は食に関しての興味関心が高い子供だった。もちろん食べることが好きで、食べることに関わる仕事に就きたいと思い、進学して、食に関するそれなりに専門的な資格を取り、食に関する仕事に就くことができた。

社会人になってからは、自己研鑽の一環として、料理教室にも通うようになった。そして、地元の食材を使ったおいしいカフェやレストランに行っては、おいしいご飯に癒される日々を送っている。

ごくまれにだが、何か人が集まるイベントがあるときには、料理を作ってほしいと頼まれることがある。
印象に残っている料理の一つは、大学の時合宿をした際の調理係を行った際に作った、麻婆豆腐や肉野菜炒め、そして暖かいみそ汁。
これらのメニューは、寒い中帰ってきた彼ら、彼女らにとってとても暖かく優しい、嬉しいものだったと後からたくさんのお礼の言葉をもらった。
もう一つ印象に残っているのは、イベントスタッフ用の賄いごはんで作成したキーマカレー。
いつもイベントの賄いとして用意されているのは、おにぎりや漬物といった簡単なものだったということで、食べやすくとてもおいしかったといって食べてくれたのがとてもうれしかった。

私は料理教室で一応料理を習っているものの、おしゃれなレストランやカフェで出てくるような、凝った料理はあまり作らない、し、作れない。
普段の私が作れるのは、あくまで家庭料理の延長の、下手すると料理名もないような、そんな料理だ。
でも、そんな料理を食べて、とてもおいしいと喜んでくれて、また食べたいといってくれる人がいる。


私は私の作る料理をあんまりおいしいと思って食べない。

そもそも、自分で自分のためだけに作る料理というのは、きっと、そういうものなのかもしれない。食べられればいい、空腹を満たせればいい…

そんな作り手のマイナスな感情を知りながら食べる料理が、たとえその場の空腹は満たされたとしても、気持ちの面で満たされる、わけがない。


「誰かに喜んでほしいと思うから」
「誰かにおいしいと言ってもらいたいから」

素材から出汁をとってみたり、野菜炒めの肉と野菜を別々に炒めたり、サラダのレタスは一口サイズになるように細かくちぎったり、チキンライスのケチャップだけを先に炒めて酸味を飛ばしたり…
そういう調理のひと手間を加えながら料理をすることが、私が誰かに向けて作る料理に込められた愛情なのだと思う。


さて、先日友人と通話をしているときに突然始まった弾き語りを聴きながら、即興でそういう風に演奏できるのすごいねと言ったところ、友人は「自分は全然すごくないよ、YouTube見るともっとすごい人がたくさんいる」とあっけからんと話していた。その言葉にはネガティブな気持ちは含まれていなかったように感じた。
でも、なるほどそのきもちはなんとなく私にもわかる気がするぞ、と思って、今回noteに書き記してみた。うまくまとめられないけれど、きっとアウトプットすることに意味があると思おう。


上にはどこまでも上がいるけれど、それでも、自分が好きなものを好きでいられるかが大切なのだ。

私は料理は好きだけど、プロではない。(食に関する職業についている段階である意味プロと言えるのかもしれないが)

でも、私がごはんを作ることで喜んでくれることがとても好きだなと思う。
同時に私も、誰かが作ったごはんを食べることが好きで、幸せな気持ちになる。
やっぱりご飯を作ることは好きなので、いろんな種類のおいしいご飯を作れるように努力はしていきたい。。。