学生時代を過ごした場所への社会人になってからの旅行というのは、自分の人生の答え合わせをするような心持ちになるのだと思った。 10年以上前のことでも、五感に紐づけられた記憶はやはり鮮やかで、過ぎてしまえば幸せな日々を送っていたのだと思えてしまう。 変わってしまっていたこともたくさんあったけれど、その分変わらずにそこにあるものに感謝したいと思った。 地元に戻ってこない世界線もきっとあったし、別の学校に行って今と全く違う人間関係だった可能性もある。 今の私はあの時あの場所で
「お礼なら、フルーツパフェ奢ってくれればいいよ、二千円くらいの、ちょっと高級なやつ亅 彼とそんな約束をしてから、気づいたら季節が一周りしてた。 一年もすると、私の置かれた状況も、彼の置かれた状況も変化してしまうもので、私は今の仕事を辞めることになったし、彼は昇進しより高い地位になった。 そんな彼と会うのは、多分今日が最後になる。 #下書き供養
表でお気持ち表明はしないという強い意志を持って。
あまりにもメンタルの波が激しすぎて、いろいろとついていかない。何を食べても美味しいと感じない。食べすぎてかえってセルフネグレクトみたいな。難しい。
何度でも、私は今の私で幸せだし、今の私が今までで一番幸せだって言い続ける
主観的に楽しい飲み会(食事会)とそうじゃない飲み会の違いはなにか?っていうことを考える。 しんどい飲み会は大抵人数が多い。でも終始楽しかった飲み会はでも人くらいいたときもあったな〜とか。 あとは幹事もやるときは別な方で気を使うからそれはそれで。。やっぱりメンバーなのかなー??
私自身の根底にある、認知の歪みが人を非難するし、自分を棚に上げるし、自分の首を締めているのは重々承知している。環境に恵まれた人たちへの僻み妬みになって、自分自身を苦しめている。 でも嫌味が口から溢れるのをやめられない。 私は私で、勝手に幸せになるしかないのだ。
この感情のゆらぎを全部作品にして消化してやるぞおおおお!っていう意気込みに。この勢いで、短編小説!書きます!!頑張れ私!
無い物ねだりをするのではなく、現状に幸せを見出したいと思って生きているのに、外側の人からいろいろ突きつけられるのがひたすら苦しい。 嗜好品や服や鞄や旅行、、、余計なことを言わないでほしい。軽々しくお金を使うようなことを唆さないで欲しい。何も知らないくせに!って真に受けてしまう。
服に親でも殺されたんかくらいの勢いで服を買うのが怖い。お金使うのが怖い。難しい。
通帳と財布の残高を見ながら震えて過ごす日々…明日の引き落としが無事に終わればちょっと安心できるかな…
服を買うのが怖い。そもそもお金を使うのが怖い。 元々そんなに収入は多くないし、食費や日用品は仕方ないし、その他誰かのために使うお金はわりと躊躇いなく出せるけど、自分のために使うお金が怖い。
どうやら、私の中で何かが満たされたみたいで、それこそ、世界が輝いて見えるっていうのはこういうことなのかなと思ったりした。 なんとなく1週間くらい立ち直るのに時間かかったけど、とりあえず良かったのかなと思ったりした。
トルコとシリアでの大地震、思い立って義援金を送ることにした。いろいろと自分なりに調べてトルコは近々トルコ大使館に。シリアは国境なき医師団に。金額は少額ではあるけれど、少しでも救われる人が増えますように。
ある意味終活みたいな、自分の身の回りのものを少しずつ手放して、できるだけシンプルにしていく作業。足るを知る。。。
ミニマリストの方で、服は3着しか持ちませんみたいな方は、きっと毎日洗濯ができるだろうし、掃除もちゃんとできてるのだろう。洗濯が得意じゃない私には到底真似できないなと感じる。一週間に1〜2回が限界で、せめて毎日着るようなものは1週間分プラスαないと、服を回しきれない…難しい………