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杏林大学医学部付属病院でのSRS(性別適合手術)を終えて—2022年12月12日入院・13日手術・25日退院—

2022年の確か5月6日にたまたまネットで調べ物をしていて見つけたのが、杏林大学医学部付属病院でのSRSだった。私がセルビアから日本に戻ってきて復学した2020年10月から始まっていた。東京では初めての三次救急病院によるSRSの開始で、これが意味するところは非常に大きく、例えば、私のような心臓病の者でもSRSを受けられる可能性が開けると直感した。

それですぐにジェンダークリニック(ちあきクリニック)の松永千秋先生に「挑戦したい」と話した。SRSに挑戦したいという話をするのはすでにちあき先生には3回目だったが、珍しくすんなりと「応援します」と言ってもらうことができた。

重い心臓病を抱える者にとっての最大の悩みは、そもそもホルモン補充療法にすら進めないこと、そして、当然、SRSを引き受けてくれるような外科医が見つからないということだろう。なにせ、心臓病などの人のために開発されたはずの局所麻酔によるヘルニアの内視鏡手術すら「失敗して名を傷つけたくない」とのことで断れてしまう始末だから、SRSへの道は遠い。

しかし、何十年でも待つという戦略をとるのであれば、待てば海路の日和ありで、心臓の再生技術が進歩するか、SRSを取り巻く状況が進歩することによって、いつかは必ず道が開けると思い、焦ることなく、機会があったらSRSをしてくれそうな先生に打診するという方式で12年ほど生きてきた。

そして、私は現在大学院生をしているが、もはやSRSを受けて戸籍変更しても、大学の学籍から寮まで一切の変更が必要のないくらい社会(大学)のほうが進んでしまった。戸籍の名残が残っているのはせいぜい、マイナンバーカードや住民票程度だ。もう、実際上、希望の性別で生きていく上で困ることはあまりない状況にまでこの50年ほどで社会は進歩してきた。

となると、SRSをしたいかどうかは、本当に自分に問いかけてみなければならない問題となる。10年前に名前の変更だけを東京家庭裁判所でしてもらったときに「新しい名前でぜひ働いてください」と言われ、それまでは引きこもりながら働いていたのから一変して、社会の中で希望の性別で働くようになった。しかし、名前一つ変えただけで大丈夫なのかなという心配もあったが、実際には一切の問題が起きることはなかった。ちょっと奇跡なような感じだが、本当の話だから仕方がない。

性別移行というものは、あくまでも社会の中でおこなっていくものだ。したがって、SRSをして例えば戸籍の性別を変えたとしても、その属している社会の中にうまくなじんでいけないのであれば、その社会で暮らしていても、たぶん、不幸か孤独だろう。

健康と金と人間関係(Kenko Kane ningenKankeiで3K)の3つが三拍子揃ってやっていけるものだと常々私は言っているのだが、SRSにしても同じである。健康な状態で、お金があって、支援してくれる人間関係がなければ、それは単に茨の道をあえて進むだけであり、生存率は低くなってしまうだろう。

実際、志むなしく亡くなってしまった当事者の方々を見ていると、ガンなどの別の病気などの場合はさておき、上記3Kのどれかが欠けている場合が多い。特に基本的にひとりぼっちの人が多い。もちろん、様々な活動などでコミュニティは形成しているのだが、本当の意味で、その人に健康と金と人間関係を身を削ってまで提供してくれるような状況にないことがほとんどである。

現在でもSRS時の診断名は性同一性障害(GID)なので、ここではあえてGIDという用語を使い続けるが、GIDは大したものではない。正直なところ、周りががっちりとサポートしてくれれば、なんてことはない。必ず幸せな人生を歩めると思う。しかし、現実は必ずしもそうではない場合が多いのが問題なだけだ。

今回、SRSを私が受けるに当たって、姉ですら「みのの夢だったんだから」と言った。他のアライ(性的マイノリティの支援者)の人からも「夢を努力して実現していく姿が素晴らしい」などとも言われたが、それはちょっと違うんだけどな、というのが私の実感だ。なぜなら、例えば、がんの治療をするとして、がんの治療自体は夢ではない。治療に成功してなにかをしていけるようになることが夢なのだ。SRSも単なる治療であり、それ自体は夢ではない。戸籍の性別を変更(というか、修正なのだが)することだって、別に夢ではない。「夢」という言葉をあえて使うのであれば、せいぜい「悪夢」を和らげるという程度でしかない。

とは言え、そういうことはどうしても当事者しかなかなかわからないものであって(もちろんSRSに夢を見たまま受ける人もいる)、あえて相手を「間違って理解している」と非難する必要はないと思っている。せいぜい、姉のような身近な者には詳細に説明をするだけのことだ。姉もアライの人も「夢」という言葉を何か悪意を込めて使ったわけでもないのであるから、目くじらをたてる必要性はない。

さて、全然肝心のSRSを受けてみての感想にいかないので、そろそろ書かないと脱線しすぎてしまうので、書こうと思うのだが、このような心境であるわけだから、SRSを受け終わった後も、やはり普通の心境であった。本当に、普通の気分。生まれ変わるとかそういう感覚や心舞い上がるような達成感はなかった。

私の場合は、安心安全が担保されるような病院と勇気ある先生が出現するのを待っていただけあって、手術は杏林大学医学部付属病院の高度救急救命センターでおこなってもらうことができた。ERのようなものを想像していただければ分かりやすいと思うが、建物全体が高度救急救命センターになっており、とにかく巨大である。手術室も多数あり(二桁レベル)、あらゆる救急救命のための設備と豊富な人材が常にスタンバイしているようなところだ。

なるほど、恐らくは世界でも最先端レベルの設備とバックアップ人材をこのレベルで揃えているからこその、先生の自信なのだろうなとすぐに理解できた。ここなら心停止してから5分以内に蘇生できる可能性は、ほかのところに比べれて格段に高いだろう(2005年の急性心筋梗塞の時は私は3分間心停止したが、そのときも新しく建て替えてできたばかりの巨大病院で最先端の機材があり、心筋再生治験もおこなっていたので助かった)。想像以上のレベルの高度救急救命センターに足を踏み入れたとき、私は「ここなら、もしもダメだったとしても、諦めがつくというものだ」と納得安心して全身麻酔の眠りに落ちた。

さて、手術は本人にとってはあっという間である。全身麻酔をかけてから覚めるまでが8時間だった。白石知大先生による実質の執刀時間は7時間程度であろうか。しかも、私のSRSは造膣なしでこの時間である。東邦大学医療センター大森病院の循環器内科の私の主治医の天野英夫先生からは、「今回は、全身麻酔の時間よりも、むしろ、いかに出血を少なくするかがポイントですよ。なにしろ海綿体ですからね。よほど大出血してしまえば、場合によっては心不全が起きるでしょう」と言われていた。だから、きっと出血をいかに抑えながら安全に手術を進めるかということを最優先してくれたのだと思う。

術後の痛みはそれほどでもなかった。もちろん、鎮痛剤は打ってはいるのだが、2019年2月に受けた、難病指定にもなっている腰部脊柱管狭窄症の手術に比べたらなんということはなかった。もちろん、8時間という長丁場は私の心臓にこたえたが、10時間は全身麻酔に耐えられるようにと夏からずっと仕事をしながら体を鍛えてきたのが功をなし、今回、8時間程度はまず大丈夫だということが証明された。今まではずっと、そんな長時間の麻酔は無理だと断られてきただけに、何度も実際に短めの手術を受けて少しずつ実績を伸ばしながら実績を作り、ここまでよくぞ忍耐強く達成したものだ、と自分と先生方につくづく感謝する。

SRSの日は外科専用のICUに入った。そして、次の日からはもう歩行の練習ができた。これには自分でもびっくりした。歩行自体は痛くはないが、やはり、座った時に傷がきつく当たれば痛いし、血もにじみ出るし、炎症も起きる。しかし、別段、ドーナツ型クッションは必要としていない。4日目くらいからは単にロキソプロフェンを痛み止めに飲むだけだった。それにしてもあまり痛くない手術をしてくださった先生の腕は素晴らしいと思う。

今回は手術中にたくさんの形成外科の若手の先生たちも見学に来てくださったようで、それが単なる興味本位ではなく非常に真面目なことであったので、私は日本におけるSRSの未来に期待を持てた。心臓が止まろうが、脳梗塞が起きようが、すぐに対応できるように各科で協力してくださっていたし、実際、手術後はさすがに心臓が弱った状態なのでいろいろとよく分からない症状が出るのだが、それもあっという間に虱潰しに特定してくださった。やはり、私のような者にとっては、圧倒的な安心感が大切だった。

杏林大学医学部付属病院がSRSを始めて2年2ヶ月経つが、ちょうど対応もこなれていて、素晴らしかった。もう、当たり前のように普通に治療に専念できた。病床数も非常に多いので、ゆったりとした個室で2週間、24時間看護を受けながら、安心して過ごすことができた。しかも、私の大学の寮からはわずか6km弱であるし、周りは30年前から勝手知ったる街である。これほど地に足のついた状態で手術を受けられた幸運には本当に感謝している。

私は弱い。だから、忍耐強い。49年の人生において、何ヶ月単位、何年単位での治療は何度も経験している。何も無駄にはなっていなかった。これからも、今までのすべてのことは無駄になることはないだろう。どうなっていくのかは分からないが、手術前日の文にも書いたとおり、術部が安定してきたら、姉とまずは地元の銭湯巡り(東京の銭湯には醤油色の本物の温泉も結構ある)でもして、ホッと一息つきたい。それが夢だが、学問の道も忙しく、かつ、プレッシャーも大きい。さりとてあくまでも好きでやっていること。なんとも幸せな人生だと思う。

◎ GIDとはあまり関係なく、むしろ、ADHDかDSD(性分化疾患)が原因だと思うのだが、今回も結局、姉のことを「お母さん」と言われてしまった。49にもなって「あら、お母さんはどこに行っちゃったの?」と、入院前PCR検査の際、言われたときには苦笑するしかなかった(姉はトイレのためちょっと席を外していた)。いったいこのように何度言われてきたことか。よほど私は幼稚か無垢に見えるのだろう。実際、姉に全面的に頼っているときの私の表情は子どもそのものなのだと思われる。早く年齢相応に見られたい。もうこんなことをずっと経験し続けて慣れてはいるとは言え、やはり49歳で中学生くらいに間違われるのはさすがに辛いところがある。ようやっと白髪も増えてきたのだし……。実は、私は若く(=幼稚っぽく)見られたり、肌が白いと言われる(=私の肌が白いのは病気ばかりで日に当たってこなかったから)のが、ちょっと不得意だったりする。


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