拒絶・罪悪感・自己嫌悪(3)

甘利実乃(当時の通称名:齊藤実乃)
査収更新日:2011年6月1日

※この文章は、2010年12月にカミングアウトし、女性として生活し始めた当初の私の本音の文章です。

この文章を読んでくださったある作家の方は、「まるで修行僧」と言ってくださいました。

私は、重度心疾患ため、何も身体的治療ができなかったため、一般的な性同一性障害の当事者に比べて夢も希望もない状態で、自己と対話を続けることにより、道を模索していました。

その結果は、現在も若干の不便は残るけれども、とても幸せな生活に結びついています。なにも期待できない状態から始まったため、全てのことに感謝して生きている毎日です。取り立てて何も嫌な経験をしないで住んだのは奇跡のようなものです。日本の社会は、法制度はさておき、たくさんの愛であふれていることを実感してきた10年間でした。

文章につきましては、残念ながら、(1)と(2)についてはまだ発見できていません。さしあたって発見できた(3)の文章について、記録を兼ねて当時そのままの状態でここに掲載しておきたいと思います。

もちろん、この10年で社会も法律も大きく変わりましたし、私の考えもより柔軟に変わってきています。あくまでも10年前の性同一性障害者初心者の文章の記録としてご笑覧いただければありがたく存じます。

現在は閉鎖しているブログに掲載していた公開文章からの転載となります。

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拒絶・罪悪感・自己嫌悪(3)
 ※拒絶・罪悪感・自己嫌悪(2)の続きです

 今回は、GID(性同一性障害)当事者が苦しむ自己嫌悪について考えてみたいと思います。

 もし、自己嫌悪を感じない当事者であったり、克服できてしまった当事者であるのなら、GIDというものは、その人にとっては、ほとんど苦痛になることはないかもしれません。

ご注意:今回はセックスに関する話を一部含みます。あと、すごく長いです。
 
 
◆自己嫌悪

 わたしは4歳のころ、無邪気にピンクレディになりたいと思っていました。毎日のようにテレビの画面で見るピンクレディにあこがれていたんですね。

 ただ、そのころのことを思い返しますと、別に自分が男だとか女だとか、そういうことはほとんどまだ考えていなかったと思います。すでに幼稚園の年少組には通っていたのですが、制服もそれほど男女の差があるわけではありませんでしたから、にぶいわたしは自分の性別なんて考えていなかったようです。ですから、ピンクレディに自分もなれるものだと思い込んでいたようです。今だったらAKB48にでもなれると思い込むようなものでしょうか。

 そんなわたしにある日、衝撃的な事件が起きました。

 それは自分のアルバムをまじまじと見てしまったということでした。自分が生まれたときからのアルバムをなにかの機会に見てしまったのです。もしかしたら、それまでも見たことはあったのかもしれませんが、あまりなにも考えてみていなかったのだと思います。それが、自分がピンクレディになれるものだとばかり思い込んだ状態で見てしまったものでしたら、その衝撃と言ったら大変なものでした。まさに、なんじゃこりゃ~!の世界です。あまりにも自分のセルフイメージとはかけ離れている醜い赤ん坊の姿に、背筋が寒くなるほどのおぞましさを感じてしまったのでした……。

 それからはもうだめです。自分の写真を見るたび、鏡を見るたびに、自分の姿の醜さに涙が出るほどの苦しさを覚えるようになってしまいました。わたしととても似ていると言われていた弟は、そのころは女の子の服装をさせられていたのですが、そちらはとてもかわいらしく見えるのですが、とにかく、自分の姿だけはだめなのです。

 顔も嫌なら声も嫌。着ている男の子のださい服も嫌。もう、なにもかもが嫌でした。さらに、5歳にもなると、自分が男というものであって、決してピンクレディにはなれないことを自覚させられ、さらに将来はどういう道を歩まねばならないかの立場も知らされることになってしまい、ますます苦しくなってしまいました。自分の思い描いていたセルフイメージとの大きな違い、そして、どうにも自分には受け入れがたい、押しつけられた未来像に、はっきり言って自我が崩壊しかねない状態でした。それでもなんとか自分を保ち、与えられた自分の役割を果たそうと頑張っていたのでした……。

 大きくなるにつれ、自分の様々なパーツがどんどんと苦になってきました。残酷な幼稚園のクラスメイトの中には、わたしの顔を変だという子もいましたし、わたし自身もそう思っていました。どうして自分は子どもらしい見た目のかわいらしさというものがまったくないのだろうかと悩んでいました。手もなんだかシワシワでお年寄りのように見えました。床屋さんに行って、せっかく伸びてきた髪を坊ちゃん刈にされるのが本当に苦痛でした。声も低く、苦痛でした。

 そんなこんなでとにかく自分が嫌いという状態が常になってしまったのでした。

 小学生にもなると、運動なんてほとんどまったくしないのに、遺伝でしょうか、どんどんと体格が良くなっていくのに苦しみ、少しずつすね毛が生えてくるのに苦しみ、なによりも醜い自分の顔が一番嫌でした。大きい鼻の穴をさらに大きくふくらませてみせて、わざと馬鹿にされるなどという自虐的なこともしていました。写真を撮られることはあいかわらず不得意でした。高学年になってくると、男のグループにも女のグループにもどちらにもうまく入り込めないことに強い苦しみを覚え、仕方がないので昼休みはひとり図書館で過ごしていました(いつもなぜかほかにはだれも図書館にいませんでした)。そして、それが見つかって、挙げ句の果てには下級生にまで変な奴だとなめられて嫌がらせを受けていました(徹底的に無視してなんとか乗り切りましたよ)。学校が終わるとさっさと家に帰り、学校のだれにも知られることなく受験勉強をしていました。地元の中学校になんて行ったら殺されると本気で思っていたからです。それでも小学校に行かないということはまったく考えもせず、結構きちんと通っていたわけですから、今から考えると不思議なものです。でも、正直、こういう状況の自分を好きになれるわけもありませんでした。人からもあまり好かれない、自分も自分自身が嫌いなわけですからね。

 中学生になると、学ランが嫌で仕方がなかったり(本当はセーラー服が着たかったのです)、精通にショックを受け、二度と射精したくないと思ったり(射精しないマスターベーション自体はたまにするんですけどね)、そんな感じでした。せっかく男としては立派にどんどん成長していても、なぜかそれを素直に受け入れることができずに自己嫌悪につなげてしまう。そういう悪循環でした。声変わりについては、もともと低かったせいか、特にしなかったようです。寮の8人部屋(同じフロアには80人)にいたのですが、当然、今ひとつなじめずに浮いていました。ただ、寮母さんたちにはとてもかわいがられていました。

 高校生になるとますます性的な違和感が強くなるとともに、自己嫌悪も強くなっていきました。寮は個室になりました。自分だけカーペットをひいたり、机も布できれいにおおったりしてきれいにしつらえた部屋では、ひょっとして自分だけはおっぱいが大きくならないかなと思って毎日もんでみたり……(笑)。学校では一部の生徒からは、「こんな奴」扱いされ、嫌がらせも受けたり決して楽しいわけではありませんでしたが、比較的自由で個人主義的な学校でしたので、その点、助かりました。数は少なくとも仲の良い友人もいましたし。『赤毛のアン』という小説にはまってからは、個室に戻ってくるとひとりでそっちの想像の世界にいってしまうようになり、バターカップすという全国レベルの同好会にも入れてもらいました(ちなみに、東大女子で『赤毛のアン』を読んでいる人や、ましてや愛読書にしている人などほとんど皆無であることを、のちに知ることになります……)。マスターベーションはそれなりにしていたと思いますが、女になった気持ちでしかすることができず、射精は絶対にしないという変わった方法でした。そういう高校時代でしたが、自分は男として生きていくしかないし、そうすることが当たり前だと思い込んでいました。カルーセル麻紀さんや、ラ・サール中学校の先輩で先生たちからよく逸話を聞かされたピーター(池畑慎之介)さん(はGIDではありませんが)のことは知っていましたが、そもそもああいうことができるのは、たぐいまれな美貌を備えているからで、自分には絶対に無理だと思っていました。まだGIDという概念すら知られていない時代でした。

 大学受験に際して、先生から(授業中の一服話で)、じつは男子でも国立の女子大は受けられるという話を聞き、真剣に考えたことがありました。過去に実際に入った人は社会的な意義のためのテストケース的な目的であり、入ったあと精神的についていけなくなり、結局はやめてしまったとも聞かされたのですが、わたしは、自分ならやっていけると思うんだけどなぁ、などと思っていました。しかしながら、結局は普通に東大を受け、入学することになりました。入ってみてすぐ思ったのが、しまったな、ということでした。クラスに女子はたった4人で、しかも男子は高校時代よりも濃い感じがし、いっそうなじめなかったからです。それでもすぐにひとりとても人柄の良い男の友達を作り、なんとかやっていたのですが、1年間はサークルにも入れませんでした。なにをしていたのかと言いますと、まず、男になるための研究でした。心理学の専門書を読みあさっては、男性の心理と女性の心理の違いを研究してみたり、セックスというものはどうするのだろうかなどと勉強していました(結局、そのときはよく分かりませんでしたが)。心理学的には、男女どちらでも男性性、女性性をもつということを知り、心理テストをしてみても自分はきわめて女性的と出ましたので、自分は女性性が強い男性で、そういう人もいてもおかしくないんだから、これでいいんだ、と理性的に理解しました。GIDという概念はまだ日本では知られていませんでしたし、専門書でも見かけませんでしたので、当時は知ることができませんでしたが、とにかく、自分のような男もありなんだ、ということを理性的に理解したことは、大変に大きかったと思います(感性としてはどこか腑に落ちないところはあったんですけれどね)。そういう学習をする一方、バターカップスという、年齢層はとても広いものの、ほとんど女性だけという同好会の集まりに誘われて顔を出し、まったく違和感なくやっていける自分に気が付き、とても楽しんでいました(一応、東大男子という扱いではあったのですが、そういうものよりも同好の士ということが第一で、性別を意識させられることはあまりなかったのです)。

 こうして自分に対しての理解がある程度進むにつれ、気が楽になり、自信もいくぶん付き、大学2年生のときにようやっと美術サークルに入ることができました(ゆるい空気感と女子が多かったことがなじみやすく感じたため)。その後、法学部に進学し、今のパートナーと出会ったことで、世界が変わったのでした。

 とは言え、それからずいぶんの年月はたちましたが、いまだに自分の容姿や声などには自己嫌悪の感情を抱いてしまうのも事実です。

 セックスに関しては、卒業後、パートナーに男として肉体関係を迫られ、初めてこたえて童貞を失ったときは、かなりの精神的衝撃を受けてしまい、自分はとんでもなく間違ったことをしてしまったと思いました。男としてなんにも感じない自分を見て、そう思ったのです。わたしは、女性の中で自ら果てることはどうしても無理でしたし(その意味ではいまだにきちんと童貞を失っていないのかもしれません)。二度とセックスはしたくないと思い、その後、1年半くらいは本当にしませんでした。そのあとは、性感マッサージのための性器提供のようになってしまいました(体位はほぼ騎乗位のみ)。ただ、一体感を楽しむということを覚えましたので、嫌なことではなくなりました。

 GIDであると自覚し、MtFとして異性装(この記事では、戸籍上の性とは反対側の性の装い、という意味で使用します)をして、外にも出て暮らすようになると、自己嫌悪の感情は非常にやっかいなものとなります。

 たとえば、わたしの場合、まったくの男のままで、その男が単純に女性装をしているだけ、という状態なわけです。背は普通の男性に比べても結構目立つほど高いですし、顔も大きければ首も太い。横顔はガラパゴスゾウガメのようでコンプレックスになっています。体つきも肩幅が結構あって逆三角形型で非常に男っぽいと思います。声だって男声にほかなりません。ですから、どうがんばったところで、男は男なわけです。それなのに女性装をして女性として生きたいと、理性をこえたところで欲求があるわけです。自分がかくありたいと思って自分に抱いているイメージと実際の自分が大きくずれてしまっている状態は、自己嫌悪の原因となります。技術とトレーニングでなんとかカバーして、よしこれならなんとかいけるかな、と思って外出していたとしても、ふと鏡に映った自分を見てしまったとたん、思ったほど女度が高くない自分の姿にがくぜんとして、一瞬で自己嫌悪モードにおちいってしまうこともしばしばです。そうすると、自信を喪失してしばらく動けなくなってしまいます。外出する前は、不安なのでパートナーに何度も、おかしくないかなぁ、と確認してしまい、次第には、「おかしくないって、くどいほど言ってるよね!」と怒られてしまったりします。また、MtFや純粋な女性(純女さん)のきれいな人を見ては自分が恥ずかしくなって自己嫌悪におちいり、そうでない人を見てはどうせ自分も同じなんだとへこんで自己嫌悪におちいり……と、はたから見たらじつにおろかしいことをくり返してしまうのです。ほんと、馬鹿みたいでしょう?

 さて、ここまでほとんどわたしの個人的な体験談のみを書いてきました。ちょっと自己嫌悪そのものから外れたような、個人史的な内容にもなってしまい、だらだらと長く申し訳ないのですが、なんとなくGIDの抱く自己嫌悪の感情について伝わったのであれば、と思います。

 ここからはもう少し一般化し、さらに緩和法まで考えてみましょう。

 GIDに限らず、自己嫌悪の感情というものは、簡単に言ってしまえば、自分が自分に対して抱いているセルフイメージと実際の自分との違いから生じます。セルフイメージと異なっていて悪く見える自分自身に対して嫌悪感や否定感を抱き、完全に自信を喪失した状態になってしまいます。自信の源になっていたセルフイメージはがらがらと崩れ去り、さらに実際の自分が実際よりもことさらに悪く見えてしまいますから、心はどん底に落とされたような状態になります。なお、セルフイメージというのはなにも容姿などの形あるものに限ったものではありません。セルフイメージが高ければ高いほどギャップは広がりますから、一般的に言って、苦しみは増えると思います。

 では、セルフイメージを低くするように努力すればいいのかと言えば、それが簡単にできれば世話はないわけです。とは言え、あまりにもセルフイメージが暴走しないように一定の歯止めをかけるように努力をすることは役に立ちます。

 反対に、セルフイメージのほうはあまり変えないまま、現実の自分をセルフイメージに近づける努力をするのはどうでしょうか。これはとても効果的である一方、目標となるセルフイメージが高すぎるような場合、逆にどつぼにはまってしまい、それこそ頑張りすぎた結果、鬱におちいってしまったり、命を絶ってしまうことも多いのです。

 もう少し、GID当事者の事情に近づけて、具体的に緩和法を考えてみましょう。

 そもそもGIDというもの自体、自己嫌悪そのものであるわけです。なにせ、心が思っている自分自身の性のイメージ(セルフイメージ)と、実際の体がずれてしまっているわけですからね。そのずれにおおいに苦しんでしまうのがGIDなわけです。ですから、自己嫌悪の感情を緩和していくということは、GIDの苦しみを減らしていく、いわば治療とほとんど同義になるかと思います。とすると、現在おこなわれているGIDの治療法について考えていくことになってしまうのですが、ここではそういった治療法(特に身体的な)ではなく、もっと日常的な考え方のレベルのもの、あるいは、現在のいわゆるGID治療をすべて終えたとしてもまだ自己嫌悪の感情から抜け出せない(あるいはたまにおちいってしまう)ような場合にすら、どう考えたら楽になれるかを考えていきたいと思います。と言いますのも、わたし自身が心臓病のため身体的治療というものがほとんどなにもできそうにないので、ほぼ現状のまま、自分の精神のもっていき方だけで乗り切っていかねばならないからです。それはある意味、身体的治療をやってしまって、もうほかにはあまり肉体的にはやることがない状態のかたと、似ていると言えば似ていると思うのです(違いは多いとはいえ)。

 今、あなたがどういう段階にあるのかはほとんど関係ありません。なぜならば、段階に関係なく自己嫌悪にはおちいってしまうものですし、たとえ世界に冠たるスーパーモデルにでもなったとしても、そういう人たちが薬物やアルコールの中毒になったり自殺未遂してしまったりしているのを見ても分かるように、心の苦しみとは無縁ではないからです。

 まず初めに、わたしがもっとも大切だと思うのは、まず、自分のことを知るということです。GIDというものがどういうことなのかを知るのは同然のこと、自分の体のことをできるだけ客観的に見ることです。

 たとえば、風呂に入るとしましょう。裸になって何気なく鏡を見てしまいますと、わたしなど、本当にまったくの男の体型のままの体がそこに映っているわけですから、やはりがっくりとします。裸の姿を見ていないとき(要するに日常のほとんどの時間)は、セルフイメージとしてはもうちょっとましなものを考えてしまっていることが多いのですが、現実の体は厳しいものです。そこで感情のままに流されると、どうしても自己嫌悪につながってしまいがちです。そこで瞬時に次のような感じで考え始めます。もちろん、別段なにも自己嫌悪におちいりそうな感じがしないときは、いちいち考えませんけれどね。

 あ、自分の体が鏡に映っている。体型は完全に男のままだけど、減量がきいて締まった感じになってきたなぁ。逆三角形な感じが、スポーツをやっている人みたい。でも、これ以上やりすぎると皮下脂肪が落ちすぎて女性っぽく見えなくなるだろうから、ほどほどにして今のぽっちゃり感も保存しておこう。それにしても背が高いなぁ。でも、昨日、スーパーのレジを打っていた純女さんはわたしよりもずっと背が高かったなぁ。かっこよかったなぁ。ほかのレジの人にもとても好かれている様子だったし。ああいう感じになりたいなぁ。真似してみよう。肩幅もやっぱり広いなぁ(ヒップと比較すると特にね)。でも、今日、ソニプラで見かけた純女さんはわたしより少し背が低くて肩幅は同じくらいだったけど、上手に服装でカバーしていたなぁ。もちろんヒップとかウエストのバランスがわたしとは違うけど、あの人だって普通に着たらかなり肩幅が目立つに違いない。あの上手な着こなしを参考にしてみよう。ヒップにこの前買ったシリコンパッドを履いてみるたら、ほとんどバランス的には変わらないんじゃないかなぁ。

 だいたいこんな感じで考えるんですね。そうすると、いつの間にやらネガティブな感情は消えていきます。理性的な技術論のほうに興味が移っていくんですね。だれでもそうかは知りませんが、GIDの人たちなら、必ず異性装のための技術については多かれ少なかれ日ごろ考えているでしょうから、可能だと思います。内容は正直、なんでもいいです。理性的な(できれば)前向きな分析が後ろ向きの感情の暴走を押さえてくれると思います。

 ほかにも、たとえば、異性装していて外から帰ってきて、改めて自分の今日の姿を鏡や写真で見てみてネガティブな感情におそわれ、自己嫌悪におちいりそうになったときは、次にように考えてみたりします。

 うわぁ。似合ってるかなと思ってこれで出かけていたけど、よく見るとぜんぜんいけてないよ……よくこれで1日乗り切れたなぁ。でも、自分の観察ではほとんどの人は眉一つ動かさないでいてくれたはずだから、今、自分が感じているよりは第三者が受けるイメージはそんなにひどいものではなかったのかもしれない。だったらまぁいっか。自分はお金をもらってステージの上を歩いているモデルさんじゃないんだし。まぁ、次はちょっとアレンジを変えてみようかな。仮に失敗だったとしても、失敗は成功の母だからね。

 なんだか屁理屈をこねているように感じるかもしれませんが、こんな程度でいいと思います。単純にポジティブに考えるのではなく、なるべく次につながるように。感情をいけないものとして亡き者にしようとするのではなく、理性を入れ込むことでちょっと涼しい顔をしてみるのです。

 異性装をして外に出ているときなどはどうでしょうか。わたしはいくつかの方法をとります。

 ひとつは上で書いているのと同じような考えで自分を客観視してみることでネガティブな感情を上手に流してしまう方法。もうひとつは、もう、いっそのこと、自分をちょっとどじで変身が下手な宇宙人だと思ってしまったり、わざとこういう格好をしてなにかのミッションを遂行していると思ってしまう方法。いずれにしても、気持ち的にどこか少し離れたところから自分を眺めてみているというちょっとした理性が感情の暴走を止めてくれるようです。

 ほかには、今のように異性装している自分を受け入れてくれたりほめてくれた経験(単なる口先だけのお世辞でもいいのです)を瞬時に思い出してみることも気を楽にします。また、異性装をして外出しているということは、少なくとも家から外に出るときというのは、それなりになんらかの自信があったはずなんです(あるいは自分で自分の今日の姿を許容できる心が)。まったく自信がない状態だったのであれば、首に縄でもつけられて引きずり出されたのでもなければ、外には出られなかったと思うのです。ですから、そのときの気持ちを思いだしてみるのです。今いる目の前の全員があなたに石を投げつけてきているわけではないでしょう。だったら、外に出たときの気持ちは間違っていなかったのです。びびる必要なんてないんです。受容してくれたり流してくれる人は確実に目の前にいるのです。だから大丈夫。こういう風に考えてみるのです。(もちろん、身に危険が迫るような場合は逃げてくださいよ。)これ以外にも結構方法はあるでしょう。目の前の人たちはじゃがいもだと考えたり、なんていう古典的な方法すら結構役に立ちますからね。他人に危害を与えたり著しく不快に思わせる方法でなければ、なんでもいいと思います。外で自己嫌悪におちいってまったく動けないような状態にだけならなければ……。

 長くなりました。そのわりには内容が薄いような感じですみません。実際問題、わたしだってこれだという答えや方法論を持っているわけではありませんからね。

 最後に、別の方法を。

 それは、思いっきりナルシストになってしまうことです。

 GIDのトランスなんて、ある程度のナルシストでなければできないと思うのですが、それを積極的に利用する方法です。自己嫌悪のまったく正反対方向への反動のようなものですね。

 常日ごろから自分のことをほめて好きになって、それこそ自分の本当の姿なんてまったく目に入らないくらい、すてきな自分に酔いしれてください。そういうときだって必要なんです。

 その状態が維持できれば、もう外に出ようが鏡を見ようが無敵です。だれの意見も聞き入れることはありません。どんな反応をされようが気になりません。まわりがどう思おうが関係ないのですから。そして、実際、日本でナルシスト異性装をしていたとしても、なにか危ない目にあうということはほとんどありませんからね(でも、危機感は忘れぬよう)。結局は、開き直ってしまった人の勝ちなんです。胸を張って街を歩いてください。ブログにだって投稿してしまいましょう。もちろん、犯罪行為や迷惑行為にまで走ったら問題になりますので、その点だけはご注意くださいね(ほかのGIDの人たちからも白い目で見られますし、GID全体の立場が下がってしまう可能性もあります。ただ、わたしがだれかがナルシストであることを止める手だては事実上ありませんから、あくまでも自己責任でやってしまってください)。

 この方法をわたしがとることはたまにしかありませんが、こういう方法もとれると便利ですよ。完全アウェイのようなところに乗り込んでいかねばならないときなどはね。自分を一生懸命説得してたきつけ、ナルシストモードに心を一時的に作りあげるんです(魔法がとけてしまったら、上のほうに書いてあるような理性的な方法でリカバー)。

 ただ、難点もあります。やりすぎますと、どんどんとおかしな方向へ行ってしまうかもしれません。ひっそりと埋没して穏やかに暮らすのにもあまり向いた方法ではないでしょう。人様の目を一切気にしないということですから、雪におおわれた坂道を転がり落ちる雪玉と同じで、際限なくなってしまう可能性があります(正のフィードバックと言うそうです)。できれば、この人の意見だけは絶対に聞き入れようとあなたが思っている人がいるといいかもしれません(負のフィードバックと言うそうです)。ナルシストになりすぎて、ある日突然、本当の自分に目覚めて気が付いてしまって、その落差に耐えきれずに鬱になったり命を落とすようなことになりませんように。ほどほど状態で一生死ぬまで目覚めないのが、一番の幸せかもしれませんね。

◆GID当事者のまわりのかたへ

 当事者が、何度も何度も自分の容姿について、おかしくないかなどと聞いてくることがあると思います。くどいなぁ、うっとうしいなぁとすら思ってしまうかもしれません。ですが、できましたら、そのときには当事者を肯定し続けてやってください。そのように聞いてくるときというのは、自己嫌悪におちいる直前、もう崖の端っこにいることがほとんどなのです。ことあるごとにくり返される馬鹿馬鹿しい儀式のように感じるかもしれませんが、それにお付き合いいただけるだけで、助かる当事者も多いのです。裏技としてはあなたから先制攻撃することです。聞いてくる前にお世辞を言っていいとこ探しをしてほめてやってください。お世辞だと分かっていても、たいていは気持ちがぱぁーっと明るくなるものです。

 GID当事者は、たいていの場合、自己嫌悪に非常におちいりやすくなっています。と言いますか、GID自体が自己嫌悪のことと言っても過言ではないようなものですから、それを助長するようなことを言ったりしたりしますと、当事者にとっては計り知れない破壊力を持ってしまうことになります。普通のかたにとってはささいなことでも、ツボにはまれば、ちょっとした一言で命を奪えることでしょう。

 ただ、わたしたちだって、心が強くなりたいと切に思っているのですよ。

◆最後に

 今日は、自己嫌悪という、どうにも難しい苦しみについて考えてみました。自己嫌悪というもの自体は、人間にとってはじつに正常な感情ですから、一切なくす必要なんてないんです(だれでも多かれ少なかれ持っていて、究極的にはなくせませんし)。ですから、自己嫌悪におちいる自分を自己嫌悪するようにはならないでください。

 以上、なんともまとまりがなくだらだらと長く、緩和法もありきたりなものとなってしまいましたが、多少参考になれば幸いです。

 次回は、拒絶・罪悪感・自己嫌悪のすべてを一瞬で吹き飛ばす緩和法について、考えてみたいと思います。ただ、人間ですから、またすぐに苦しみ出しますけどね。それでも、人によっては死なないですむようになるかもしれません。

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