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『セレブの誕生 「著名人」の出現と近代社会』 読書記録

セレブの誕生 「著名人」の出現と近代社会 アントワーヌ・リルティ

仕事の関係で「有名人になるとはどういうことか」を考えるようになったので、考える参考になればと思い読んでみた。近代の事象と対比することで、著名性に対する人々の熱狂や陶酔は、現代に限定されない、人間の本質的な特性なのではと思った。

著名性はその人の本来の活動の評価基準を必ずしも反映するものではなく、マーケティング法や公衆が勝手に抱くイメージに左右される、かなり不安定なもの。その意味で、著名になることが社会的成功かと言われると、個人的には疑問だ。

SNS等、著名人の個人メディアでの発信が一般的となった今、それが公衆に抱かせる著名人のイメージのコントロールや、著名人が私生活を公開することによるメンタルへの影響が気になる。次はそういったトピックを扱う本を探して読みたい。

以下、個人的なメモ。

著名性と栄光や評判は別

栄光:ある人が達成した偉業が人並みはずれていると判断された場合に獲得される有名性。本質的に死後に与えられる。
評判:あるグループなり共同体なりのメンバーたちが、彼らの中の一人に対して向けるもの。
著名性:近代社会に登場した第三の有名性の形態。

栄光との違い:著名というのは必ずしも称賛とは限らない。著名な犯罪者もいる。
評判との違い:直に接点を持たない広範囲な人々の集まりに寄って知られる。本来の活動に固有の基準という物差しで測られるのではなく、大衆の好奇心を捉え続ける能力により判断される。大衆の好奇心は著名人の私生活に対してとりわけ激しくかき立てられる。

著名人のビジュアルの流布

-17世紀、肖像画は直接親交のある人のものだけ所有する習慣

-18世紀の人々は著名人の肖像画を求め、大衆向けの肖像版画が出回った(ヴォルテール)
→本人とはまったくことなるような肖像も存在、本人はコントロール不可

- 19世紀、絵入り新聞の出現(ヴィクトリア女王)、写真の発達、広告の発展
→本人の本当のビジュアルが広まる

- 20世紀、映画の誕生。
→大衆の熱狂

// ここからテレビ、デジタル、SNSの時代へ。18世紀は名前と肖像画は知っていても本人の実際の顔を見たことがないという状態だったのが、今は著名人の顔はいくらでも見られる。

著名になることは成功か

- 人は著名になりたいという欲求がある

- ただ、著名になれば公的な人とみなされるようになり、大衆の抱くイメージは本人の実際のそれとは離れていく。本人がコントロールできるものではなくなる。

- 著名性の重圧(ジャン=ジャック・ルソー『告白』『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』)
//『社会契約論』のルソーが『新エロイーズ』などの小説を書いていたのを知らなかった。小説を読んで夢中になり、ルソーに手紙を送る婦人たち。

// 18世紀は特に自分で大衆のイメージをコントロールする術がなかった。現代でも同様だろうが、SNSなど直接大衆にメッセージを出せるプラットフォームの確立によって、当時よりはコントロールしやすいのでは。

現代との類似

- ゴシップ誌の存在

- 男性著名人に熱狂し、崇拝する婦人たち(女性著名人は不道徳な女とみなされたという意味で非対称性があった)
→リストは超絶技巧で観衆を魅了。女性観客の熱狂。
// 現代のアイドルに通じるものがあるか。

- 著名人のビジュアルを表すものを手元に置きたいという欲望(肖像画など本人の実際のビジュアルとかけ離れていたとしても)

- 著名人の私生活に対する好奇心
// 現代ではむしろSNS等で著名人側から私生活の情報を提供しているように見える。さらに、YouTuberやInstagrammerのような、私生活を映し出すことで著名人になるような、逆のパスを辿っているかに見える人も存在する。
いずれにせよ私生活の情報が人々のイメージを大きく形作ることは明白で、この見せ方・イメージのコントロールは注力していくべきなのでは。著名人のメンタルヘルスへの影響も気になる。(ルソーは病んでいた。)

その他の感想

- 著名人は著名であることで利益を得ているが、反面損失もある。(死後の栄光と比べると)著名人としてもてはやされる期間は短い。大衆に消費されていると感じる可能性もある。

- 「同じ新聞や同じ本を読むことによって形成される公衆」
同じ人を話題にすることで同時代を生きているという臨場感・仲間意識を感じる。それゆえ著名人の旬はある程度短いのが自然なのでは。
SNSのようなユーザーがコンテンツを選択するようなメディアでこの特性を発揮するにはどうすれば?トレンド機能?

- 映画『群衆の中の一つの顔』エリア・カザン 観たい


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