民主主義と私~西垣先生の著作を読んで~

 民主主義とは折り合いが悪い。
 私の世代は初等教育時代から常に「多数決」が正義だった。いつだって何人だって(時に四人でも多数決を採用する。四人だぞ? 二・二に割れるのが目に見えてる!)それしか知らないみたいに多数決で決める。

 多数決は正義か。最大幸福がそんなに尊いか。社会全体のためにマイノリティは黙れってか!
 小中学、高校と私は反発し、時にレトリックを駆使して浮動票を自軍に引き入れ多数化することで自分の意見を押し通した。
 数十人規模の集団ですら、浮動票は相当数、存在している。況や大集団をや。

 民主主義とは要するに、圧倒的カリスマの意見に付和雷同した者たちの正義なのだ!
 だから私は民主主義が嫌いだ。政治になんかなんの興味もない! どうせ私の意見は封殺されるさ。だってマイノリティだもの。そんな気持ちで生きてきた。

 この度、西垣通先生の著作「ネット社会の『正義』とは何か~集合知と新しい民主主義」を読んだ。西垣先生の軽妙ながら説得力のある書きぶり、時に笑いを誘うご自身のお話やご意見がちりばめられた大変に読みやすい本。全体の流れや不思議な饒舌から、長い教授生活で培われた「講義」の技を垣間見る。

 この方の講義を、一度受けてみたかったものだ……!

 詳細は実際に読んでいただきたいので省くが、深く私に刺さったのは以下の点だ。曰く、現代に「教養人」「知識人」は存在しない。かわりに大衆とネットの結びつきによる「集合知」が生まれた。この「アマチュア集団」の合議=新しい民主主義は意外と「使える」のだから、これを活用していったらどうかというご提案。

 旧態依然とした専門家が視野狭窄と利権で身動きも取れないのだから、アマチュア集団とネットの「合わせ技」でより闊達な議論をして新しい時代を切り拓け、という激励に聞こえた。氏の提唱するN-LUC(Nishigaki Model of Liberal Utilitarianism for Communities)は独創的かつ合理的で、検討する価値が充分にありそうだ。たいへんに興味深い議論なうえ、私が完全に全体を捉えた自信もないのでぜひ皆様各自でご確認ください。

 しかし、こうも思う。果たして民主主義は最善なのかと。消滅した少数のエリートによる啓蒙など期待できないし、ましてや独裁は近年成功した例がない。そうすると大衆が主体になる社会の到来が予想されるが、さて、民主主義で大丈夫ですか?

 この世には、理論も意見も信念すらなく「んー、なんとなく」という「感覚派」の人間が多数いる。さらにはこの国ではそういう人たちが「そんなに言うなら、それでいいです」という「消極的賛成(だって議論めんどくさいし)」を投じる危険が常にあると私はみている。結局、民主主義は集団の質が低ければ、ろくでもない結論しか導かないのじゃないのか?

 新しい民主主義の前にまず、少数派になってもいいから自信をもって自分の意見を論理的に述べる人々を育成しなければならないだろう。この国の教育はずっとその真逆をしてきたと私は思うが。集合知に期待するのは「その先」の話のように感じた。

 西垣先生、生意気を申し上げましたが、こういうレベルの人間がごろごろしておるのが今の日本社会であります。そういうレベルの私でも、先生の著作にたいへんに刺激を受けました。
 最後に、私の愛読している「正法眼蔵」の中に見つけた「六韜」からの引用の言葉を記して(孫引きですみません!)、読書感想の結びとさせていただきたいと思います。

好聴世俗之所誉者 或以非賢為賢 或以非智為智 或以非忠為忠 或以非信為信
君以世俗所誉者為賢智 以世俗之所毀者為不肖
則多党者進 少党者退
是以群邪比周而蔽賢 忠臣死於無罪 邪臣虚誉以求爵位
是以世乱愈甚 故其国不免於危亡

いちご訳(あまおう まあおによる訳)
世の人の意見を真に受ければ、賢くもないものを賢いとし、智者ならざるものを智者となし、忠なき者を忠臣とし、信用できないものを信用するだろう。
国王が世俗の褒める者を取り立てて、世俗の好まぬ者を取るに足らぬと切り捨てればやがて、仲間の多い者が世にのさばり、マイノリティは日陰となるだろう。
こうして邪悪な者どもが手を結び賢者を覆い隠して、忠臣は冤罪で死に、邪臣は出世し虚ろな栄誉をほしいままにする。
かくて、いよいよ世は乱れ、国は滅びを免れ得ない。

・西垣通氏 「ネット社会の『正義』とは何か」集合知と新しい民主主義

#ネット社会の 「正義」とは何か

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