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日本最初のアニメーション

この文章を書いていたら、私の大好きな漫画家さんの松本零士さんが、お亡くなりになりました。
松本零士さんの宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999、キャプテンハーロックなど、映画やテレビに夢中になっていたことを思い出します。
中でも、私が一番好きだったのは、「新竹取物語 1000年女王」です。

1000年に一度の周期で太陽系を回る謎の惑星、地球より高度な文明を持つ生命体、世紀末を想像させる、巨大な地震や天変地異、隕石の落下や核爆発などなど、現代の地球に起こっている地球環境の変化や、戦争などを暗示しているかのような内容でした。

そして、宇崎竜童さんと阿木陽子さんによる主題歌のなかに、こんなフレーズがありました。

10年は 夢のよう 100年は 夢また夢 1000年は 一瞬の光の矢 
過ぎてく時間は 怖くない 輝きを失うことがいやなのです 

10年は 人の暮らし 100年は 時代の流れ 1000年は 歴史の移り変わり
傷つく事なら 怖れない 優しさを試されるのが辛いのです

アニメの1000年女王にぴったりなうえ、まさに、現代そのものに思えます。
こんなすごいアニメを作ってくれた「松本零士さん」のご冥福をお祈りいたします。


前回の投稿から、私の幼い頃のテレビ番組を整理しようと調べ始めて、気がついたことがあります。
毎週当たり前のように見ていたテレビアニメでしたが、毎週1回放送していたのは、1963年から始まった手塚治虫さんの「鉄腕アトム」でした。
1963年といえば、私が生まれてから5年後。
幼稚園に入っていた頃です。 
では、いつからアニメーションがあったのか、日本で最初のアニメーションを調べてみようと思います。

日本で最初にアニメーションを作った人は3人います。
1人目は、天然色活動写真株式会社の下川凹天(しもかわへこてん・おうてん)
2人目は、日本活動写真株式会社(日活)の北山清太郎(きたやま せいたろう)です。
3人目は、映画製作会社小林商会の幸内純一(こううち じゅんいち) 【前川千帆(まえかわ せんぱん)との共作】
この3人は、ほぼ同時期にアニメーションを制作していて、日本のアニメーションの創始者と言われています。

3人とも1917年(大正6年)に、アニメーションを公開していますが、公開時期が多少ずれているため、第1号は下川凹天さんの短篇アニメーション映画の「凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻」です。

下川凹天の作成技法は、黒板にチョークで絵を一つずつ書き、撮影したら絵を消したり書き加えたりして、1コマずつ撮影する手法をとっていた可能性が高いということです。
ただ、写真などによる資料がいっさい残っていないため、詳しい制作方法はわかっていません。

1916年~1917年の1年半の期間に計5本のアニメ作品を制作した
1917年1月 『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』(でこぼうしんがちょう いもすけいのししがりのまき)日本初のアニメーション映画
1917年2月 『凸坊新畫帖 名案の失敗』(でこぼうしんがちょう めいあんのしっぱい)
1917年4月 『芋川椋三玄関番の巻』(いもかわむくぞうげんかんばんのまき)
1917年4月 『茶目坊新畫帖 蚤夫婦仕返しの巻』
1917年5月 『芋川椋三宙返りの巻』
1917年9月 『茶目坊主魚釣の巻』(ちゃめぼうずうおつりにまき)

もう一人の創始者である北山清太郎(きたやま せいたろう)は、水彩画家であり、雑誌編集者であり、同時代の若い画家たちを支援した人物だったそうです。
日本洋画協会を設立し美術雑誌を発刊、展覧会開催などを行いましたが、その後美術界を離れアニメの世界に転向して、北山映画製作所を設立しました。

1912年に創設された日活の向島撮影所が、1917年(大正6年)に制作した本編5分の作品で、1915年頃からアニメ制作を始め、翌年に本作の撮影に入りました。
猿と蟹(サルとカニの合戦)は、下川凹天に続く日本で2番目のアニメーション映画となりました。その後、猫と鼠、いたずらポスト、花咲爺、貯金の勤、舌切雀、カチカチ山など、5分から20分程度の作品を制作しました。

当時の北山清太郎は、およそ1ヶ月に1本のペースで、短編アニメーションを制作していたということで、当時としては、異例のペースで制作していたということです。
そのため、作画のコマ数が少なく、動きの単純なアニメーションだったようです。

また、幸内純一は、1908年(明治41年)、北澤楽天の門下生として、東京パックで政治漫画を描いていました。その後、大正6年に映画製作会社小林商会小林喜三郎にスカウトされ、1917年6月30日、前川千帆と共作「塙凹内名刀之巻」が劇場公開されました。
この他、茶目坊空気銃の巻、塙凹内名刀之巻などを制作しています。

小林商会(こばやししょうかい)は、東京の映画会社で、大正の初期に小林喜三郎が設立した映画製作配給会社でした。実質1年程度の活動後に倒産しました。

日本最初のアニメーション映画、下川凹天の「凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻」から5ヶ月遅れで公開されました。この作品は当時の映画雑誌『活動之世界』に掲載され、これが文献に載るアニメ評の最古のものといわれています。

以前は、本編映像が見つかっていませんでしたが、2007年に大阪でフィルムが発見され、国立フィルムセンターでデジタル復元されて、2008年に一般公開されました。

日本最初のアニメが作られてから今年で106年。
大好きなアニメに関して、この後も「あわてず、のんびり」書いていこうと思います。


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