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家族葬

わたしは東京都民。東京の端っこに住んでいる。
都心ではない。橋を渡れば千葉県、歩いても行ける埼玉県。
なので。葬儀の形に変化があるとじわじわーっと県をまたいで浸透して行く様子が良くわかる。

今でこそ、「家族葬で行います」とお知らせすると、それなら私たちは遠慮しようと近隣の方々が配慮してくれたり、家族葬なんだから一般は行っちゃいけない、くらいの認識を持って対応してくれる方々が増えたけれど。

浸透するまではトラブルの連続だった。

トラブルの起因は大体の場合。
A-関係の希薄な「血縁の親族」と
B-血縁はないが「親戚のようなもの」の濃密関係にある友人。

Aは親や連れ合いや子や孫であるが、離れて暮らしており、故人の日常から遠い存在。
Bは他人であるが故人の日常そのものである。

Bは、Aの存在を「故人から聞いたことがある」とか「写真でみた」ことがあるが、
AはBのことをまるで知らない場合が多い。

病院で亡くなると、当然だが、Aには連絡が行くがBは知らぬままである。

死を知らされたAは。
家族葬で執り行うと決めていて、だからなるべく周囲には気づかれぬように、遺体を自宅に安置することを拒み病院から遺体保管の場所に直行させる。葬儀社と打ち合わせをし、日程を決めて粛々と通夜と葬儀に向けてコトは運んでいく。遺品整理などは後ですればよいし、故人の家に行ったからって何がどこにあるかもわからない。そもそも近所にバレたくないし。

Bはそんなこととは露とも知らず、故人のことを案じながら帰りを待ちわびる。
いままで。ガラッと扉を開けて「いるー?」何て言いながら玄関を上がり一緒にお茶を飲んだり。夕飯を一緒に食べたり。姿が見えないと心配したり。この場所で。共に生きてきた。

自分からお見舞いに出掛けようにもなかなか身体がままならない。隣人を案じながらも、変わらぬ毎日を過ごしていたら、そこに風の噂で隣人が死んだらしいと耳にする。聞けば今日の午後1時に出棺すると。

とるものも取り合えず、聞いた葬儀現場に駆けつけてみると、いま、まさに出棺しようと言う瞬間だった。

来られた方はギクッとした、そんな表現がぴったりの瞬間。

なんで?なんで知らせてくれないの?
ずっと一緒に生きてきたのに。

仲良しさんにも連絡したけどあまりに急でみんな来られない。
泣きながら、振り絞るように言葉をかけながら、柩に駆け寄る。
釘打ちをしていて、フタは開かない。
小窓をあける。
顔も撫でられない…触れられない…花も添えられない。

回りはいたたまれない。
ごめんなさいごめんなさいと謝る家族。
呆然自失の隣人。
迫る出棺時間。
時は、刻まれて行く…

遠くの親戚より近くの隣人とはよくいったものだ。

そんな出来事がたびたびあった。

家族葬。
時代背景も様変わりして、平均寿命も伸びて、少子化も核家族化も当たり前になり、人々のつながりも希薄なものとなった。核家族は離婚や再婚などで複雑化し、バブルを知らない若者たちが社会の主軸になりつつある。

家族が。家族として。
その姿を全うするための最後の一幕が
「家族葬」なのかもしれないな。

ジワジワと、日本全国に広がりを見せ展開している家族葬。


「美しい国 日本」とか言っちゃってたけど。
現実はシビアなのだ。

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