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クーピーでいえば白(アプリコット1)

【アプリコット1】

 専門学校の授業が、今日は早めに終わったけど、この後何も予定はない。
 何か時間をかけて料理でもしようか、などと思いながら、蓮は駅のホームにいた。
 電車がやってきたので、中の状況を観察する。これはもう、癖になっているようだ。
 割と人が乗っている…。いつもよりも後ろの車両だからなのか…長椅子に六人、優先席に二人…
 窓際で立っている…女性が一人…
 キャップを深くかぶって、なんとなく、見たことが…。

 彼女だ。

 2両先の電車を観察中に気づいた。
 いや、違う人かもしれない…でも、土曜日の2時…。
 もしかしたら。
 小走りでその車両へ向かう。彼女が立っている所よりも、後ろのドアへ…。少し息が上がっているが、悟られないようにクールなふりをする。そのくせ、心臓の鼓動が早くて慌ててしまう。
 落ち着け、思うほどドキドキが止まらない…。
 チラッと、隣の出入り口を見る。イヤホンをして外を眺めている…やっぱり、彼女だ。
  今日は、白いシャツに色の濃いジーンズとスニーカー…明るい色柄のリュック…。

 彼女…だけど…。

 気づいたところで、何だというのだ。蓮は突然、冷める。
 声でもかける、いや、だって覚えてないかもしれないじゃん、何か言う?
 どうも~って、久しぶり、覚えてる?チャラっ!声かけるとかカッコ悪。
 何か聞こうか、どうしてあの時あんなことをしたのか、あの議員が嫌いだったから、あのおばさんを助けたかったの?
 今、この場で聞く?

  ああ、もうっ!

「先日は、ありがとうございました」
 突然、後ろから声をかけられた。イヤホンをつけてはいたが、音楽は流れていなかったから、その声にびくっとした。
「あ、突然、ごめんなさい。…覚えて…ないですよね」
 キャップからのぞき込む目は、間違いなく彼女だった。
「あ…助けていただいて、ありがとうございました。」
 と、彼女はペコっと頭を下げる。
 蓮は、動けない。心臓は激しく動いているけど、感情が出ないように、必死でポーカーフェイスを作った。
 あ…
 彼女の目に少し不安が見える。
 怒らせてしまったかもしれない…。声をかけてしまったことを後悔しているようだ。
「すみません!」
 と、そのまま踵を返して蓮から離れようとする。
「いや…。」
 違う…。
 蓮は慌てた。

「待って、俺も」
 と、言うと、電車は次の駅に滑り込んでいく。
「あ…え?」
 蓮は彼女の腕をつかむと、そのまま駅へ飛び降りていた。
「声かけようと思ってました…」
 と、言っているその目は、真ん丸で…。
 彼女も目を丸くして、しばらくお互いに動きが止まった…。 
 プシュゥ…。
 二人を置いて、電車は静かに動き出した…。

 んふ、ふ…
 彼女が、クスクスと笑いだした。

「やべぇ…」
  変なナンパみたいになったじゃん。降りる駅でもないのに、彼女の都合もあるのに…。え、何してんだ。変な汗出てきた…。
 俺、やべぇ。
 蓮は、全身の血が顔に集まって、火を噴きそうだ。彼女は、もはや声を上げて笑っていた。
「あ〜可笑しい…えっ?大丈夫ですか?」
 彼女はひとしきり笑うと、蓮の赤い顔を見てのぞき込んだ。
「ごめんなさい、びっくりしたら可笑しくなっちゃって。」
 言いながら、また彼女は笑い続ける。
 笑ってる…。
 蓮は。ぼうっと彼女の笑顔を見つめていた。
「あの…手を…」
 気が付くと手首を握り締めたままだ。
「あ!」
 慌てて離し、両手をぱっと上にあげる。その様子を見て、彼女はまた笑った。蓮も、情けないながらも、つられて一緒に笑ってしまった。
「…少し、座りませんか?」
 と、彼女は、ホームのベンチを指した。
 はあぁ…
 椅子に座り、蓮はため息をつく。
 何してんだよ、俺…。
「コーヒーとお茶どっちがいいですか?」
 彼女は、いつの間にか自動販売機の前に立っていた。
「え、いや、俺が…」
 ゴトン。
 何かが落ちた音がする。
「カフェオレ飲めますか?」
「…いや、ブラック」
「じゃあ、もう一つはブラックにします」
 ゴトン…2つの缶コーヒーを持って椅子に座った。
「お疲れ様です。」
 彼女がカフェオレを差し向けた。蓮は、小さくコーヒーの缶を傾ける。
「…ごめん、なさい、降りる駅じゃなかったっすよね?」
 プシュ、
 彼女の缶が鳴った。
「はい。もう少し先。でも、慌てて帰る予定もなかったので、乗れる電車で帰れます」
 カフェオレの甘い香りが、ほのかに漂ってくる。椅子は思ったより近い…。
「あの、先日はすみませんでした」
 と、蓮が頭を下げる。
「なんか、ややこしくしましたよね」
 彼女は目を丸くしながら、蓮を見つめて、ん~…と、首をかしげる。
「いいえ。ややこしくしたのは私です。皆さんに助けてもらっちゃって…。ありがとうございました」
 と、こちらも頭を下げる。近くで見る彼女の肌は白くて、メイクは薄め、派手さはないけど、整った顔立ちをしている。
 首元には、きれいなオレンジ色の石がついたネックレスをして…
 きれいだ…。
「あれで済んだけど、万が一誰かが怪我するとかの可能性も…」
 蓮の様子を気にすることなく、彼女は続ける。
 自分の感情にドギマギしながら、悟られないように蓮は自分を律した。
 がっついてるなんて思われたくないし…。
 ブラックのコーヒーをごくりと飲んだ。
「うん…俺も反省した。迂闊なことして、高校生の人生に傷つけるところだったよ。」
 ふう、と、蓮が言うと、女性が驚いた顔をして見ていた。
「あ、あれ?何か変なこと言った?」
「いえ…あなたすごいですね…」
「え?」
「しっかりした方なんだなぁと…」
「俺?あなたが、でしょ?」
「…もう一人、いたんです」
 彼女は、カフェオレを一口飲んで、ほう、っと息を吐く。
「え?」
「あの、グループ本当は7人組だったんです。」
「7人?」
「はい、同じように6人席の人に声をかけどかせて。あと、ひと席空いてて…。あの白髪の方と、もう一人が立ってました。」
 岩原のことだろう。思い出して腹が立ってきた。今頃どういう生活を送っているのか…。
「議員の奥さん…俵が言いました。あなた座りなさい。と、白髪の方に。でも、お二人は別のところにって、断りました」
 同じようなことを繰り返しているのだろうか、彼女たちの真意がわからない。
「俵は良いから座れ!と、怒鳴ります。そして言います。あなたは、親友でしょう?と、白髪の方に。」
 うん、この前の話だ。でも…あの議員の妻の顔も思い出して腹が立つ。
 派手な化粧で、ケバケバしたアクセサリー…。漫画みたいにわかりやすいな。
「そして言います。私たちは、仲良し6人組でしょう、って」
 と、彼女の顔が苦しそうに歪んだ。
「もう一人を、仲間外れにしたんです」

 あ…?

 蓮は、腹の奥底から黒い感情がこみ上げてくる。なんだ、その話…。
「白髪の方、岩原さんと言いますが、なかなか座らなかった。そしたら、いいんですって、もう一人の方が移動して、私の隣に座りました。岩原さんは苦しそうなお顔をして、そのままその場に…」
「周りの奴ら…人は何も言わないの?」
「はい、うつむいているだけ、もしくは一緒にニヤニヤしているか…。ああ、腹が立つ」
「うん、ほんとに、むかつくな」
「はい。それで済めばまだ良かったのに、あの俵…大声で笑いながら言うんです。ああ、良かった。あの人がいると気分が悪くなるのよ、ねぇ、ダンスもヘタ、家柄も良くない、私たちは戸建て、タワーマンション。あの人は団地~って、イヤな感じで…」
 と、言いながら彼女は涙ぐんでしまった。
「あ…え?」
 蓮は慌てる。
「ほんとにひどい!みんな聞いてるのに…でも、何もできなくて」
「うん…あの勢いじゃね…」
 そんな奴いる?
 蓮は、あの議員の妻の様子をまた、思い出していた。
 一瞬、ちゃんとした人に見えた。
 岩原を叱り、電車の中の人間に頭を下げ、夫の立場をきちんと守ろうとして、賢ささえ感じていたというのに…。
「でも、隣をチラッと見たら、洋子さんスマホを取り出して、犬の動画を見だしたんです…」
「え?言われてる方?すごいね。え?洋子さん?…どういう…」
「あ、可愛い、とか、コレ見たことあるとか、こちょこちょと言いながら、私もすごいなって思ったんですけど…。でも、手が震えていて…スマホに、ぽたって、涙が…」
「ああ、ぶん殴ってやりたい」
 蓮は拳を握り締める。
「本当に!」
 言いながら彼女はハンカチを取り出した。涙が止まらなくなったのだろう。
「周りも何も言わない!サラリーマンも男の人たち、苦虫つぶしたような顔で逃げる人までいて…。いえ私も、何もできなくて…」
 彼女はついに、おいおいと泣き出してしまった。ちらほらと前を通る人たちが、蓮を見る。
 きっと、女性を泣かしているひどい男に見えるのだろう…。
「あ、あの…大丈夫?」
「ごめんなさい…こんな、みっともない…」
「いや、良かったらさ…。もう少し時間あるかな?」
 慌てて蓮は、彼女をお茶に誘った。

***********************

 各駅停車のある車両は、不穏な空気が漂っている。人はそれほど乗っていない、土曜日の午後…。 
 外は穏やかに晴れていて、青空に可愛らしい白い雲が浮かんでいるというのに。
「あら?あんなところに座ってるわ。同じ車両にいるのも嫌なのに」
 優先席を占領している6人組という女性の一人が言った。
 俵喜美江、このグループを仕切っているリーダー的存在のようだ。
 一人の女性を見て、電車の中とは思えない声で話している。
 公共の場なのに…。
 少し離れたところでは、親子と思われる二人が、彼女に注目している。
 髪はお団子にして、腕に、大きな輪っかを持っている、小学生ぐらいの女の子と、母親のようだ。
 こちらをチラッと見ては、二人で何か話をしている。

 はずかしい…。

 松岡あんずは思っている。
 自分の隣にいる女性は、スマホで動画を見ているようだ。チラッと横目で伺うと、犬や猫の動物が多い。
 あ、かわいい、とか、目がきれいとか言いながら、必死で動画を見る。
 が、その手が震えていることに、あんずは気が付いてしまった。
「だって、あの人の子、公立よ?塾に行かせられないからって、私立には行かせられないって!まぁ、可哀そう。お父様の稼ぎが悪いからぁ。ああっはっは…。」
 俵の馬鹿笑いが響き渡る。
 本当に、恥ずかしい!
 あんずは、ちらっと小学生の女の子を見ると、とても落ち着いた、というより冷めた目で俵を見つめていた。
「教育格差、ねぇ?そういう物がこんなに身近に起こるの。」
 俵の勢いは止まらない。
「良い学校を出て、良い会社に入らなかった人、入れなかったのよぉ。そういう人はきちんとした仕事に就けないから貧乏なの。つまり、努力をしなかった人たちが、子供たちの未来をもダメにするのよ」
 と、人差し指を立てた。

 ふざけんなよ…!

 あんず自身も、地元の小中学校を出て、公立高校を選んだ一人だ。マンションでもない、お金持ちと言う人とは違うだろう。 
 でも、両親は勤勉で、家があり、食事もでき、幸せに暮らしてきて、今はやりたかった職業に就いている。
 私立に入ることが、金があることが?マンションであることが?なんだというのだ。
「見て、あの人の服…量販店の安いやつ」
 と、尚も嫌がらせは続いている。
 馬鹿なの?俵の言っていることが正しいのか?何故、誰も何も言わないの?
 あんずは、もう、あきれてしまった。近くにいた男性が首を振りながら、違う車両へ移動していった。
 大人なのに、男のくせに…って、ダメだ…。それは、自分も同じ…。でもまあ、そんな価値観の人たちと、この人は一緒にいなくて良かったのかも…。
 何気なく隣に目をやると、女性が震えていた。ぽたり…。スマホに何か落ちる。

 ああ、もう…。

 鼻の奥がつん、としてきて慌てる。どうしよう…。
 あんず自身も泣き出しそうだ。
 ちきしょう…何か言ってやりたい…そう思うが、体が動かない。
「うちの俵は、やります!」
 突然、俵は胸を逸らせ、ガッツポーズをする。
「子供たちの未来に夢と希望を!すべての子供たちに平等の権利を与えます。私たちは知識もあり、お金もあり、地位もあるの。偉いんだからぁ。生きている価値のある人間なのよ、あんな、社会のごみとは違って。どうぞ、共和新党に1票を~」
 と、声高に締めくくった…。

 政治家…。

 あんずは目を丸くした。共和新党の俵…テレビでも名前を見る議員だ。内閣のなんだかという役職もあるような…。
 その、妻…。
 何人かの男性がスマホをポケットにしまい、俵たちから目を逸らした。少しは睨んだりしていたような人までもが、何も見なかったようにそっぽを向いた。

 もう、我慢できない!
 あんずが立ち上がろうとした瞬間
「いいのよ、座っていなさい」
 と、小さな声がした。顔を上げると年配の女性が立っている。
 その人は、あんずを手で制して、うんうん、と小さく頷いた。
「あらぁ、可愛いわね、あなたの猫ちゃん?」
 隣の女性に穏やかに声をかけた。ふわりとしたパーマがかけられた髪は白く、そこに少し、紫の色を足しているようだ。
 来ているワンピースも薄紫、同じ色の糸で花の刺繍が施され、上質そうな生地…。上品な…。あんずがこの人を表現するとしたら、そういう形容詞が付くだろう。小柄だが、背筋が伸び姿勢が良く、二人を交互に見ながら優しく微笑んでいた。
「あ…いえ、あの。」
 隣席の女性が慌てて涙を拭く。
「うちは、団地だから飼えなくて…」
 と、必死に笑おうとするが、その声は震えている。あんずも息が苦しい。
「まぁ、そうなの。お子さんはいらっしゃるの?」
「はい、中学生と高校生の娘が、動物を飼いたいといつも言われているのですが…」
 俯き加減で、でも、一生懸命に女性は話した。少しでも状況が変えられるのなら…。そういう彼女たちの様子に、周囲の空気も少し、応援したいような、見守るような空気に変わってくる。
「そう。おうちはどこ?もしかして花咲山団地かしら?」
「はい。どうしてわかったんですか?」
 と、女性は目を丸くして、思わず顔を上げた。
「私、近所なの、うれしいわ。この辺で大きな団地だもの。静かで良いところよね、季節ごとにお花が咲いて、敷地も広くて日当たりも良いでしょう?」
「はい。そこが自慢と言うか…」
 と、女性の顔に、少し笑みが戻りかけた。
「団地のくせにねぇ」
 叫ぶように言ったのは俵。チッ、馬鹿が…女性の隣のサラリーマンが小さく毒づいた。そして、どうぞ、と、立って話していた老女に席を譲る。
「まあ、ありがとうございます」
 老女は、丁寧にお礼を言い座った。
「…私を見なさい。向こうは気にしなくていい」
 腰を降ろす瞬間に、隣の女性の耳元で、彼女は低くしっかりと告げた。ふわふわとした、優しい老女とは違う顔が見えて、あんずは驚いた。
「私はね、子供がいないの」
 え…。
 はっきりと言ったその声は、高くて良く通る。
 あんずたちは思わず彼女を見てしまった。俵たちに、背中を向ける形になる。同じように、席を譲ったサラリーマンや周囲の乗客も、なんとなく老女に注目した。
「だからね、ワンちゃんを2匹飼っているのよ。一軒家で広いけど、主人も亡くなって寂しくてね。でも、最近困ってるのよ…」
 老女は、本当に困った顔で眉尻を下げた。
「…困ってる?」
「そうなの、この歳でしょ?散歩に行くのが億劫なの。何せ、大きなワンちゃん2匹だから」
「大型犬ですか?2匹もいたら大変ですね…」
「そう…誰かに散歩を頼めたらなって…あ、そうだ、お子さんたちどうかしら?」
 思いついた!とでも言うように、彼女はうれしそうに両手を合わせる。
「…え?」
「娘さんたちに頼めないかしら、週に2回とかでも良いのだけど…。ちゃんとお礼はさせていただくし、うちの子も喜ぶわ。良い子たちなのよ。ちょっと、いたずらなのだけどね」
 と、眉尻を下げるが、その顔はうれしそうだ。
「そんな…ご迷惑じゃないですか?見ず知らずの人間が…」
「あら、今、お知り合いになったじゃない?」
 と、今度は首をかしげる。
「良かったら、私とお友達になっていただけないかしら?」
「…え…」
 女性の目に涙が溜まり始める。それは、あんずも同じことだった。慌てて下を向く。
「こんなおばあさんイヤかしら?でも、私はあなたとお会いできて良かったと思ってるのよ。ご近所だし、こんなにお若い方とお友達になれたら最高じゃない」
 と、本当にうれしそうに微笑んだ。前に立ったサラリーマンも、少し穏やかな目をする。周囲は全員、彼女に注目した。
「それにね…」
 と、彼女は突然、椅子から背筋を伸ばすようにして身を乗り出した。
「塾へ行かずに、公立高校へ入ってくれたのでしょう?なんて素敵なお嬢さん。自分で勉強ができるということ。賢くて親孝行よ。そんなお子さんを育てた、あなたみたいに素晴らしいお母さんに会えたんだもの~。私、ラッキーだわぁ」
 良く通るその声は、車両全体に響いた。というより、わざと聞かせているのだろう。目線は、俵たちのグループへ向いていたからだ。
 はぁ?
 明らかに腹を立てたような、俵の声が聞こえた。あんずは、怖くてそちらを見ることが出来ない。
 でも…少し…。
 胸のあたりがむずむずし出して、目の前の空気が、ちょっと明るくなった気がした。ふう、と少し息がしやすくなる。
「あらやだ、そんな方とお友達になれると思ったら、私、浮かれてしまったわ。電車の中なのに、大声出してごめんなさい」
 老女が慌てた様子で、手で口を押えながら周囲へ頭を下げた。
 それは、もう、フリだろう。あんずは小さく、ふふ、っと笑ってしまった。それを見て、前のサラリーマンも笑う。
 向かいに座っていた女性も、遠くで見ていた親子連れも、くすくす…ははは…、次第に車両の中は、笑い声に包まれた。
「ああ、いやあねぇ…。これだからおばさんはダメだ、とか言われちゃうのよ。常識がないとか、はしたないとか、ねぇ…」
 と、周りに対して笑顔を振りまいた。最後のねぇ、は6人組の方へ向かって。それも、もちろん、そういう演技だ。
 6人組は、一斉にうつむいた。
「あなたはこんな風になってはダメよ」
 と、老女はそんな6人を確認すると、今度はお団子の小学生の女の子へ向けて言う。驚いた顔で、でも、女の子は大きく頷いた。
「そう、良くわかってる。素敵な女性を目指してね。あなたは、どういう人になりたいか考えているでしょう?」
 はい!女の子は、元気よく、はっきりと、素直な笑顔で答えた。
「素晴らしいわ。こんな子供たちが育ってるんだもの。私たち大人が、未来をきちんと作らなくちゃね。変な政治家なんかに任せていられない。」
 と、拳を握る。

 すごい…。この方…すごい…。

 あんずは、さっきとは違う感情で、震えが止まらなかった。
 チラッと俵たちを見ると、一様に俯いているが、俵だけは唇をかみしめて、老女を睨んでいた。
「あ、もうすぐ着くわね。最近、この駅にカフェができたのよ?知ってる?」
 少女のように…思わず言ってしまいそうな顔で、女性は続ける。次の停車駅が近づいた。
「私、一度行って見たいの。ねぇ、これからお時間あるかしら?一緒に行きません?」
 泣いていた女性は、目を丸くしたまま老女の様子を見つめることしかできない。でも、なんとか、うん…。と、小さく頷いた。
「わぁ、良かった。あなたは?どう?」
 言われたのは、あんず。はい…思わず答えていた。
「良かった。私、暇だったの。若いお二人のお話、聞けるなんてラッキーよ」
 と、勢いよく立ち上がる。
 え…まるで年齢を感じない…。
 不思議な感覚に包まれながら、あんずたちも降りる準備をした。
 前で立っていたサラリーマンが腰を曲げ、小柄な老女の耳元へ顔を寄せる。
「ありがとうございます。何もできず、申し訳ありません」
 と、頭を下げた。
「いいえ…私も何もしていませんよ。人として普通のことです。働き盛りの男の人は、社会の何やらに弱いですからね」
 と、低く小さな声でチクリと言いながら、女性とあんずの背中を優しくサポートして出た…が、
「ああ、そうそう」
 ふと、何かを思い出したように、彼女は電車をのぞき込んだ。その目線は俵たちだ。
「森田喜美江ちゃんよね?」
 俵の目が大きく見開かれ、勢いのまま思わず老女の方へ顔を向けた。
「やっぱりそうだぁ。星野谷小学校にいたでしょ?覚えてないかな?」
 あ…あ…。
 俵の目が強張り始め、顔が赤くなっていくのがわかる。全員の目が彼女へ向かう。
「すみれ先生。」
 と、老女は自身の胸に手を当てた。
「わかんないか、もうおばあちゃんだもん、しょうがないわね。でも、まぁあなた…」
 あんずは老女を振り返った。徐々に声が低くなってきて、気になったのだ。彼女は、今までの様子からは想像できないほど、厳しい顔で俵を見据えていた。
「立派になったわねぇ…」

 ドン!

 勢いよく、扉が閉まり、電車が動き出した。あんずは体の震えが止まらなかった。

「そのカフェが、ここです」
 周りをくるりと見ながら、あんずは言う。彼女が飲んでいるのは、ジンジャーエール。
「へぇ…」
 同じように見回しながら、蓮は答えた。
 それよりも…あんずさんって名前がいいな、とも思いながら。
 蓮が飲んでいるのはハニーレモネードソーダ。大きめのグラスにはミントが浮かび、生のレモンが氷と共に、シュワシュワと炭酸に包まれていた。
 町工場の多いこの地域は、工場の衰退が進み、空き店舗が増えた。
 駅前の商店街も、街の中もどことなく寂しく、夜の歓楽街と呼ばれる辺りだけが細々と残っていた。
 だが、隣接する地域に大型のショッピングモールが建設される予定が立ち、駅前からは離れた場所に新築のマンションも増え、住民も増えてきているらしい。その中で、地域の若い住民たちや企業が、街の再生、活性化を図ろうと動き出している。
 空き店舗の有効活用として、敢えて工場の外観を残したままリノベーションし、若者にも受け入れられるカフェなどの飲食店、雑貨店などを展開する、その1つがこの店だ。
 元々は、車の部品を作る工場だったが、オーガニック食品をメインにした、洒落たカフェに生まれ変わった。
 使用する野菜や果物は地元でとれる有機野菜、ビーガンなどに対応し、飲食物に動物性の物は使用しないメニューも豊富だ。
 牛乳の代わりに豆乳、オーツなどから選べて、その豆乳も、地元の老舗豆腐屋と提携して作っているらしい。
 入口は広く、横の壁はシャッターのようにすべて開け広げられ、結婚パーティや屋内コンサートなどもできるようなオープンスペースになるよう設計されている。
 音楽機材の搬入、車いすやベビーカーに対応して、その床全体に段差がない。
 店の中は、錆びた鉄骨で支えられ、整備されてはいるが、配管や壁は工場のまま、それが味にもなっていた。
 中央にある木目の大きなカウンターテーブルが印象的で、その周りには色とりどりの椅子が並び、
 壁にかかる写真や絵画はセンス良く配置され、あちこちに観葉植物や、季節の花が飾られていて、居心地も良い。
 今どきなのだけど…蓮は、なんとなく、懐かしさのような不思議な感覚を持って見ている。
「すみれさんも、とてもうれしそうにお店の中を見て回っていました」
 と、あんずが笑う。
「すみれ先生…ってことは、小学校の時、あの…俵を受け持っていたってことだよね?」
「はい。星野谷小学校、少し離れたところにあります。すみれさんは、長く音楽教師をされて、その後、教育委員会や市の委託職員としても働いてらしたと…」
「すっごいよね、だって…40年前とか覚えてるかなぁ?」
 と、蓮は訝しる。
「教師ってそういうことあるみたいです。もちろん、全員じゃないけどって。やっぱり印象に残る子はいるのよって」
「へぇ…やっぱ、あいつすげぇ目立ったのかな?いじめとかしちゃってたり?」
「いえ…逆です」
「逆?いじめられっこ?」
「ん…まあ。最初に赴任した学校の子だから、中学、高校…と気にかけていらっしゃったと」
「音楽の先生でしょ?担任とかじゃないのに…」
「そうです。彼女の担任は、ベテランの男性教師。6年生の頃のことだそうです。」
「いじめって…無視とか、仲間外れ?…いや、だとしたら、今、なんであんなことすんの?何もわかってないじゃんか」
 蓮は、電車での出来事と俵の様子を思い出して、はぁ?っと、ため息交じりに言った。
「そうなんです、私もそう思ったんですけど…すみれさんが言うには、自分の驕りだったと、わかってくれるだろうと思って疑わなかった。だからこそ、議員の妻という立場にもなったし、人の上に立って指導してくれるだろうと…」
「あ、あの…さ」
 蓮が、言葉を遮るように声をかけると、あんずは、はっとして目を大きくした。
「あ、ごめんなさい。お忙しいですよね?長々と話してすみません。しかも、私ばっかりしゃべって…」
 と、慌ててジンジャーエールを飲み干そうとする。
「いや、違う、あの…これ食べない?」
 と、蓮はわかりやすく慌てて、思わずテーブルの上の、小さなメニューを指差した。
「…豆腐ティラミス…うまそ」
 そして、それを初めて見たかのように、目を丸くした。
 今、自分で指したのに…。
 あんずも目を丸くした。そして、二人でクスクスと笑いあった。
「食べましょう。私、こっちも気になります。」
 あんずがフォンダンショコラを指した。
 きれいな艶のある爪…。
 きっと透明なマニキュアをしているのだろう。
 それだけなのに、ちょっとドキッとする自分がいて、蓮は慌てる。
「両方頼んでシェアしませんか?」
 と、あんずはそのまま笑顔を向けた。
「うん…。いいね」
 自分も自然と笑っているだろうな…蓮は思う。
「あ、シェアとか大丈夫ですか?…」
 今度は伺うように、蓮の顔をのぞき込む。
「もちろん!あと、一つ頼んで良い?」
「え?もう一つ?…甘いの、好きなんですか?」
 そして、目を大きくして驚いた…。
「ううん、スイーツじゃなくて…」
 コロコロ表情が変わって面白い…。
 蓮は、くすくすと笑いだす。
「敬語使うの、やめない?」
 と、自身も伺うように、あんずの顔を覗き込んだ。

                      【アプリコット2へ続く】


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