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クーピーでいえば白(こげ茶色1)

【こげ茶色1】

「お小遣い上げようか?」
 そう言われた。母親は一生懸命働いている。それでも生活は苦しかった。新しい靴が欲しい、初めて会った大学生に話した。見た目もカッコよくて、話も面白かった。
「じゃあ、俺が買ってあげるよ、でも条件があるんだ、できるかな?」
 そういいながら彼は喜美江の手を掴むと、何気なしに自分の股間へと持っていった。
「え~?やだよ」
 喜美江は拒んだ。なんだかよくわからないけど、イヤだった。
「なんで嫌がるの?俺は、うれしいのに」
 口を尖らせて言う彼を見て、大人なのに子供みたいで可愛いなぁ…。と、喜美江はぼんやり思った。
「…どうしてうれしいの?」
「ここは、大事なとこでしょ?特別な人にしか触らせないんだよ。大事なキミちゃんだから、うれしいんだ」
「…ママじゃだめなの?」
「ん~ママも良いけど…。実は、俺キミちゃんが好きになっちゃった。だって…可愛いんだもん」
 と、大学生は喜美江のおでこにキスをした。唇が触れた瞬間の温かくてやわらかい感触に、喜美江は衝撃を受けた。
「あったかい…。パパ…、お兄ちゃんみたい!」
 素直な思いだった。大人の男性、しかも父親のような男性とは関わってこなかった。母親の恋人らしい男は来たが、喜美江に優しくするような人はいない。お茶を入れろ、肩を揉め、都合が悪くなれば部屋を追い出される。話を聞いて、可愛いと褒めて、おでこにキスなどしてもらったことなど初めてで、喜美江は胸の鼓動が激しいことに気が付いた。
 ドキドキする…。優しいしカッコいい…。ママはこんな人に抱きしめてもらえるから、いろんな人と付き合うのかな?
 良いな、あったかいな…。
 顔が高揚し、心拍数が上がる。初めての感情が喜美江の心を包んでいく…。
「キミちゃんは…寂しいんだな」
 うっ、と、両手で顔を覆って、大学生が泣き出した。
「お父さんいないしさ…こんな家で、いつも一人でいるんだろ?ああ、俺がそばにいてあげられればなぁ…」
 と、言って喜美江を抱きしめた。記憶の中で、体験したことはない。もちろん、赤ん坊の時はあったのだろうけど。母親には、どこか壁を感じている。いつも忙しそうで、うまく甘えることが出来なかった。
 今…この人には…。
 気づくと、涙がボロボロとこぼれていた。
「良いよ、泣きな。俺が話聞くよ。金も無いんだろ、汚い服着てさ…こんなに可愛いのに。」
 大学生は喜美江の頭やおでこに、チュ、チュと音を立ててキスをする。 
 耳…頬…目…。
 そして、そのまま唇が重なった。

 何だ…これは…。

 感じたことの無い感触と、感情が喜美江を襲う。学生に包まれている体は動かない。だが、体温の温かさは、喜美江の不安を紛らわせる。もしかしたら、これが優しさというもの…。抵抗することなくそのまま床に寝かされる。身体には男の体重が乗り、動かすことができない。
「おも…い…」
 声を出そうとしたら唇を塞がれた。無理やりこじ開けられ、舌を入れられて息もできなくなった。ん…あ…。自分の口から変な音が出る。学生は息を荒げ、バタバタとジーンズを脱ぐと、喜美江の手を強くつかみ、自身のトランクスへ押し当てた。
「おお…うう…。キミちゃんは可哀そうだからな、俺が、う…愛してやるから」
 …アイシテヤル?
 手が触れているのが嫌で、離そうとするが学生がそれを無理やり動かした。トランクスの隙間から生暖かい物にあたる。抵抗しようと体や腕をよじらせたが、逆に学生はもだえた。声を出そうとすると口をふさがれる。
「ああ…やっべ。大丈夫だよ、良くなるからね」
 と、言って喜美江に笑いかけ、キスをする口をそのまま下げていく。喜美江の身体のあちこちを学生はむさぼるように舐め始めた。
「…くすぐったい、イヤだ、よ…汚いから」
 硬直したままの喜美江を、学生はニヤリとしながら見下ろした。
「良いんだ、キミちゃんは可愛い。キレイだ。だから俺は幸せだよ。ね…俺にもしてくれる?もっと幸せにしてくれる?」
 喜美江は、彼を幸せにしたかった。自分にできることがあるなら、そう思って必死だった。この人は自分を愛してくれる。幸せにしてくれる、抱きしめてくれる…。温かくて優しい人だから…。
 突然、口の中に彼が入ってきて、喜美江は目を丸くする。オエッ、喉の奥の違和感で涙が出てきた。ウェッ…。
 でも、彼の顔を見ると幸せそうに目を閉じていた。 
 そうか、これが良いのか…。幸せにするってこういうことなのかな…。
 スカートははだけ、下着を脱がされた。彼の下半身は何も着ていない。
「ああ、キミちゃん…。最高に幸せになる時がきたよ。」
 大学生は言いながら、喜美江の股間をまさぐりだした…。
「はっ、やべぇ…」

 あ、目の周りが赤くなった…。
 喜美江は、相手の様子を見つめる、妙に冷静な自分がいることに気づいた。目を見開き、瞬きもせず自分を見ている顔は…笑っているようだが、その口は奇妙に歪む。
 さっきより、カッコ良くない…。
 頭の中では、グワングワンと何かの音が鳴っているような気がする。自分の股間の違和感は何だろう?何をしているんだろう?少し痛いな…。でも、彼が幸せそうだし、うれしそうだ。これで良いのかな?最高の幸せってなんだろう?どうなるんだろう?
  あれ?この人、誰だっけ…。
「ひゃあははっ、さあ、イクよキミちゃん…」
 その時、玄関のドアが開いた。
「やべっ」
 学生が慌てて、脱いだトランクスで股間を抑え、トイレへ逃げた。体がうまく動かせないまま、喜美江は首だけ動かして、母親を見た。
「ママ…」
 おかえり…良かった。少し安堵した自分がいた。不器用ながらも精いっぱい笑顔になろうと、顔を歪めた。
 母親は目を見開き、能面のように白い顔で、喜美江を見下ろしていた。何か得体のしれない物を見るかのようなその目は、喜美江の心に深い傷をつけた。だが、彼を怒ってくれるだろう。何故かそう思った。きっと、良くないことをしているのだから。彼は逃げたし、母は怒っている。それは悪いことをしているとわかっているから。
 きっと、自分を守ってくれるはずだ。
 そう、思ったのに…。
 母親は、喜美江の胸ぐらをつかみ引き起こした。
「何笑ってんのよ。馬鹿にして!勝ったつもり?小学生のくせに生意気なことしやがって!何だよその顔、気持ち悪い!」
 パンッ、と左の頬をはたき、喜美江を床に投げ捨てた…。
「ちょっと!どこまでやったの?場合によっては倍の金よこせよ」
 そのまま大学生へ嚙みついて、その後、喜美江には一瞥もしなかった。
「最後まではいってねえよ。なんだよ、あと少しだったのによぉ」
 と、男は喜美江をにやついた顔で見た。
「だけどさ、良いよ。さすがあんたの子だぜ。将来楽しみだなぁ」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。何、子供相手に興奮してんの?最悪。」
「だって、やべえよ。肌つるつる。うへへ。なぁ、早くやろうぜ~。爆発しちゃうよぉ」
「ばぁか。あんなのに興奮してる奴なんかとできるか。金だけよこせ」
「馬鹿だな、やきもち焼くなよ。ほら…見ろよ。すげぇだろ?たぶん、おかしくなるぜ。どこでする?今ここでするか?何回でもいかせてやるよ」
「…あんたの部屋」
「間に合わねぇよ。そこのホテルでいいや。ああ…やっぱ、その前に一回イカセテ」
 二人は言いながら、風呂場へ向かい行為をする。そしてその後、玄関を出て行った。楽しそうに…笑いながら…。
 その間、喜美江は床に寝転がったまま、木造の古いアパートの天井を眺めていた。叩かれた頬が、ジンジンと痛い。焦げたような茶色い天井の木目は人の横顔に見えたり、歪んで叫んでいるような顔にも見える。電気の傘に埃が積もり、小さな蜘蛛がその周りを歩いていた。
 変なの…。
 喜美江は思いながらふっと笑って、ギギギ、と音がしそうなほど、無理やり首を動かして部屋を眺めた。襖に貼られた絵は、喜美江が幼稚園の時に書いたものだ。それはただ、襖の穴を隠すために貼られているだけだろう。
 所々シミのついた壁と、簡素な家具が並び、お世辞にもきれいな部屋とは言えない。と、言うより物があまりないし、自分の机などはもちろんない。部屋の真ん中にある、小さなこたつ机ですべての物をこなしている。
「こんなぼろい家で、汚い服で可哀そうだ…」
 ああ、そうか。私はカワイソウなんだ。
 だから、アイシテくれようとしたのだ…。
「誰にも言わない方が良いよ。母ちゃんが怒るから」
 行為を済ませた大学生は、去り際にさわやかに笑った…。
 コチコチ…小さな目覚まし時計が鳴る。
 パチンコの景品だ、学校行くとき使いな。知らないおじさんがくれたっけ…。思い出そうとして顔が出てこなかった。どこの誰だっけな…。ランドセルが転がり、喜美江の好きなキャラクターのついた巾着が見えた。
 今、何をしているんだっけ…。
「ママ…、ママァ?」
 呼んでも無駄だ、いつもいない。いつも一人で、いつも寂しい…。
 でも、もう慣れていたのに。涙がボロボロとこぼれて止まらなかった。
 ああそうだ、上靴を洗わないとな…。宿題もやってない…。明日は体育もある。そうだ、ゼッケンがはがれてきたんだったな…。縫ってもらわないと、いや、自分でやらないとな…。
 突然、大学生に触られていた部分がしくしくと痛みだした。なめられた首や胸に当たった舌の感触を思い出して鳥肌が立った。自分の口の中に入れたものは…。
 起き上がり、流しに駆け込んだ。胃の中のすべてが出てきても吐き続けた。うがいをしても気持ち悪さはとれない。水を飲みこもうとして、また吐いた。体の中に、何か汚いものを入れてしまいそうだからだ。
「ヒィ、気持ち悪…ヒィ…」
 何度も体を洗い、何度も吐いて、髪をかきむしった。あいつにキスされた髪の毛も、口もすべて汚いものに思えて、吐き気が止まらない。
「ママ…ヒィ…ヤダよ…ママァ」
 何度呼んでも、どんなに泣いても母親の姿はない。だが、喜美江にはそれしかできなかった。ふと気づくと、風呂場にあった、母親の使っている小さな剃刀を手にしていた。
「き~みちゃんっ!」
 玄関の外から友人の声がする。近所の子たちと約束をしていたのだ。
 もう少し、早く行けば良かった。今の出来事を話してみようか…。
 いや…みんなに知られたら?…。
 きっと嫌われる。もう、遊んでくれなくなるかもしれない。
 喜美江は慌てた。手にした剃刀を髪の毛に当ててジャキジャキと切る…。
 アパートの廊下に面した風呂の窓の隙間から、顔を覗かせ精いっぱいの笑顔を作った。
「ごめんね、さっき髪の毛にガムがついちゃった…。切ったら変になったから遊べないや」
「え~?大丈夫~?」
「うん、恥ずかしいからママに見てもらってからにするね」
「わかった!ミツバチ公園にいってるよ~」
「うん、バイバイ!」
 パタパタと何人かの足音が遠ざかっていく…。
 いやだ、行かないで…。
 一人になりたくない。そう思うのに、体が動かない。やっぱり公園に行こうか…。誰かに話してしまうかもしれない。むしろ面白い話にして笑ってしまおうか…。
 誰にも言わない方が良いよ、母ちゃん怒るから…。
 言えない…。母親の白い眼と、叩かれた頬の痛み、学生の顔、触られた感触…イヤダ、ヤダ…。
 そんなの知られたくない、気持ち悪がられる。
 ママが怒る、殴られる…。
 どうしよう、明日学校に行くのが嫌だ。
 この後、母親に会うのも、嫌だ…。

 ふと、目が覚めると、見たことの無い物が目に入ってきた。明るくて、きれいな木の模様…これは天井…。そこに、白く丸いライトがへばりついているようだ。
 部屋…?
 どこの?誰の…?
「おっ!起きたか?」
 突然、目の前に顔を出したのは、近所の遊び仲間の雄三だ。同級生の兄で2歳年上だが、いつも自分たちと遊んでいる。弟が心配だからよ、と言っているが、弟の京志郎は、呼んでないのにいつもついてくるんだ、と煙たがっていた。その、雄三君…、なんで、ここにいるのだろう?
「寒くないか?部屋で震えてたんだぞ。今、母ちゃん呼んでくるからな、あ、うちの母ちゃんな。お前のうちのじゃねぇよ」
 言いながら障子を開けて、部屋を出て行った。キレイな和室のようだ。寝心地のよい布団はベッドではなく、フカフカの敷き布団と、花柄のきれいな掛け布団。ともに真っ白なカバーが付けられている。自宅で寝ている、キャラクターの絵柄の布団も好きだけど、幼稚園から使っているから少し小さくて、薄くて寒い。こんなに気持ち良い布団初めて…。
 でも、きれいな布団なのに自分は着替えてない、汚い洋服のまま…。
 …あれ?
 急に、今いる状況に不安になった。来ている洋服は、少し大きめのTシャツと短パンだった。自分の物ではない…。髪の毛は…肩まであったはずなのに、手に触れるのは、耳のあたりで終わった。
 こんなに短かったっけ…。
 障子で閉じられた向こう側には、リビングが繋がっているようで、雄三の声と女性の声が聞こえた。床の間のような場所に、掛け軸がかけられ、大きくて、奇麗な花瓶に赤い花が飾られていた。なんていうお花かな…。喜美江はぼんやりと思った。
「喜美江ちゃん、大丈夫?」
 エプロンで手を拭きながら、雄三の母、朱莉(あかり)が入ってきた。細身で、すっきりとした面長のきれいな顔立ちに、大きめのカールがかかった茶色の髪が良く似合っている。優しい笑顔で喜美江の布団の横に座り、おでこに手を当てた。
「ん…熱はなさそうだね。びっくりしたんだよぉ。雄と京が運んできたの。真っ青…ううん、もう白くなっててね…」
 言いながら、目に涙が溜まってくる。喜美江は目を丸くした。
「あ、ごめんね…。目が覚めて良かった、うん。おなかすいてない?今日シチューだから食べていきな。お母さんには言っておくから。ね」
 と、喜美江の頭を撫でた。そして、その手をある場所で止めた。
「こんなこと…しなくて良いんだよ…。喜美江ちゃんが、傷つくこと無いんだよ…」
 と、喜美江が切った髪の毛を触りながら、朱莉はとうとう泣き出してしまった。触れられている髪の毛から、朱莉の体温が伝わる。反対の手は、布団の上から喜美江の腹あたりを、ポンポンと優しく叩いていた。
「…知ってるの…?」
 喜美江が震える声で聞いた。もしかして、知られてしまったのか…あのことを…。
「大丈夫、知らないよ。雄も京も。他の人は知らない。おばさんが喜美江ちゃんのママに聞いただけ。誰にも言わない、言わなくていい。考えなくていい、忘れなさい。体をあっためて、ゆっくり寝れば元気になるよ。おばさんがそばにいるからね」
 さっきの出来事が徐々によみがえってきて、喜美江は震えだした。
 友人たちがいなくなった後、何度もシャワーを浴び、泣きながら母を呼ぶ。その反面、母親に会うのも怖かったし、学生とのことを思い出して、半狂乱で良く自分でもわからなくなった。体温が下がり、体は震え、そのまま眠ってしまったようだ。
 森田雄三と京志郎は、喜美江がなかなか来ないので、もう一度呼びに帰った。呼びかけても反応もない。出かけたのかな…そう思って、格子のはまった台所の窓からのぞくと、喜美江が横たわっていた。寝てるのか…。京志郎は帰ろうとしたが、雄三が玄関のドアノブをひねると開いていたので、中に入っていった。
「キミちゃん、そんなカッコで寝てたら風邪ひくぜ!」
 喜美江は、薄手のタンクトップと短パンだ。冬ではないとはいえ、このままじゃダメだな。部屋を見回して、脱ぎ捨てられたパーカー見つけ喜美江にかけた…。
 泣いてた?
 雄三は、喜美江の顔を見て思った。涙の跡…。弟の同級生だ。良く笑って、良い子。でも裕福ではないし、父親や兄弟が話してるのを聞くと、親が良くないらしい。
「あんまり近づくなよ、雄。あいつの母親、やべぇからな」
 2番目の兄が言う。
 やべぇってなんだ?みんな言う。クラスの奴も、近所のババアも。
 でも、母親は悪いかもしれないけど、喜美江は良い子だ。やさしいし話も聞いてくれる。
 俺、友達作るの苦手だからな…。でも、喜美江は違ったんだ。みんなが、弟の京志郎でさえ俺のことを馬鹿にするのに、喜美江だけは褒めてくれた。雄三君はやさしい、年上なのにえばらない、いつも元気で明るいよって…。
 だから、自分も喜美江には優しくしようと思った。
 クラスの女とか、悪口ばっかり言ってるくせに、雄三君、お金持ちだしカッコいいんだから喜美江と遊ばない方が良いよ、とか言ってきやがる。お前らの方が遊んでやらねぇよ、バァカって感じだ。
「う、うう…ママ…」
 突然、喜美江が声を出し、震えだした。歯がガチガチとなるほど痙攣している。
「キミちゃん?…。京!手伝え、運ぶぞ」
 咄嗟に雄三は喜美江を背負う。と、体が冷たくて驚いた。
「やべぇ、京、俺のジャンパー喜美江にかけろ。うちに行く、お前、先に行って母ちゃんに話しておいて」
 雄三は喜美江を背負い、家に着くと、たまたま早く帰っていた長兄が運び、布団へ寝かせた。母親がガタガタと震える喜美江を抱きしめ続けた。
「大丈夫だよ、喜美江ちゃん。もう大丈夫だからね。京、お母さんのパジャマ持ってきて。雄、お湯沸かしてくれる?…怖くないよ、ね…。」
 ヒィ…ヒィ…泣きながら喜美江は震える。
 寒くて、寂しい、呼んでも誰も来ない、一瞬、どうでも良くなった。
 ああ、このまま死んだら楽なんだろうな…。
 その時、ふわりと優しい温度が自分を包んだ。ママ?…。怖々目を開けると、そこには雄三がいて。風邪ひくぜ…。
 こんな風に、優しくしてくれる人がいるんだなぁ…。思った時、震えだした。死にたくない、そう思うけど、死んだ方がマシ…。その狭間で体が痙攣した。
「良かったね、雄たちが行ってくれて良かった。大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり息してみようか、ね?」
 朱莉の優しい声は、喜美江の心の奥深くを包んだ。ガタガタ震える体は徐々に落ち着き、麻痺していた横隔膜が少し機能する。息を吐いて、息を吸って…。朱莉は抱きしめながら喜美江の背中をゆっくりさすっていた。大丈夫、息できてるよ、怖くないよ…。
 その後、温かいミルクティーとカステラを出され、おぼろげな記憶の中だが、着替えをして布団へ横たわった…。もう、ずいぶん眠っていたのだろう。
「喜美江ちゃんが良ければ…ううん、今日はうちに泊まりなさい。おばさんと寝よう。」
「…でも、ママが怒るよ」
「ちゃんと話したから大丈夫だよ。おなかは空いてない?」
「ん~…」
 喜美江は腹を抱えて考えた。そういえば、カステラの前は?お昼?朝?
きゅるるる…。
「お腹…空いてる…」
 喜美江は、自分の腹の音に目を丸くして、朱莉を見上げた。
「そうか…うふふ…おなかすいたよね。ずっと寝てたもん。うっ…、じゃあ、食べよっか。」
 朱莉は、泣きながら笑っている。
「ここにする?それともみんなと食べる?」
「ここ…がいい」
「そうだね、じゃあ持ってくるよ。シチューの時はご飯?それともパンかな?」
 シチュー?クリームシチューのことかな?
 給食で食べる以外は食べたことがなかった。母親の仕事は弁当屋で、ほとんどの食事はその残り物をもらってくる。唐揚げやコロッケ、嫌いではないが、毎日同じようなメニューで飽きてしまう。シチューとか、家で作れるんだなぁ、と変な感想を持った。でも、給食の時は、コッペパンが一緒に出てたっけ…。
「パンが良いです」
「そっか。嫌いな物ある?野菜とか、アレルギーはないかな?牛乳大丈夫?」
「たぶん…大丈夫…。牛乳飲めます」
「そう。良かった。じゃあ少し待っててね」
 朱莉は障子を開けて出て行った。
 京志郎は良いな…。喜美江は思った。こんなに優しいお母さんがいて良いな。あんなに明るくてやさしいお兄ちゃんがいて良いな。良いな…。
「よし!一緒に食べようぜ」
 トレーを運びながらやってきたのは、雄三。一緒に京志郎も入ってきた。その後ろから兄、浩一郎が小さな机を運んできた。たしか、高校生だったはずだ。
「こんばんは喜美江ちゃん。熱が上がらなくて良かった。今日はゆっくりしていってね」
 と、にこやかに笑いかける。
 お兄さんもカッコいい…。喜美江は心底、京志郎が羨ましい。なんで、こんなに違うのかな…。さっきの…大学生と変わらないのに…。
 喜美江が、一点を見つめ、顔をこわばらせた。
「キミちゃん、このパンうまいぜ」
 と、雄三が声をかける。
「昨日、デパートで買ってきたんだ。ドイツのパン」
「ドイツ…?」
「そう、少し硬めだけどシチューに漬けて湿らせると…ん~めちゃくちゃ、うめぇ!」
 と、本当に幸せそうな顔をして、パンを頬張る。口の端にシチューを垂らし、ザクザク、ほくほく…。雄三の顔を見ていたら、急激にお腹が空いてきた。湯気の上がるシチューには、赤いニンジンと、緑のブロッコリー、ゴロゴロと大きめのジャガイモが入っていて、部屋の蛍光灯の光で、キラキラと光った。
 おいしそう…。給食のとは少し違うけど、クリームシチューだ。雄三の言ったパンは、茶色で、焦げているような色…。でも、少しちぎると中身は柔らかい。家で食べる食パンとは違う匂いがした。シチューに漬けて…。
「…わぁ…」
 喜美江の顔が、ぱあっと明るくなって、雄三はホッとする。真っ白だった頬は、少し赤みが差し、シチューやパンを口にするたび、目が変わった。
…どういう風にと言われると難しいけど、なんか、良く笑う喜美江の目だ。さっきまでは、別人のようだったから。
「な、うまいだろ?俺、母ちゃんのシチュー好きなんだ。なんでもうまいぞ。カレーもハンバーグも、漬物も、あとね…」
「雄は、なんでもうまいって言うじゃん」
 一緒に食べている京志郎が口を挟んだ。ここまで、なんとなく喜美江に話が出来なかった。というか、目を合わせるのも怖かった。同級生で近所。小さい時から遊んでいるし、仲もいいけど…。さっきの喜美江の様子は、どこかおかしかった。雄三は、寒くて震えてたというけど、それだけじゃない気がする。髪の毛を自分で切ったみたいだし、泣き方も普通じゃないって言うか…。触れてはいけない何かがある気がする…。
 同級生の異性が、自宅の布団で寝ていて、そこで一緒にご飯を食べているのは、小学校中高年の男子にとって複雑な感覚だろう。しかも、相手は泣いていて、自分の母親や兄が必死でその子の世話をしていて…。何があったのかを聞きたいが、聞いてはいけない空気感もあり、京志郎は落ち着かない。喜美江自身にも聞いてはいけない気がするし、誰かに話してもいけない気がするし、なんなら、話せない。クラスの女と一緒に住んでるとか、からかいの対象でしかないじゃないか。京志郎は思っている。
 でも…。
 隣で話をする雄三を見る。喜美江を見ながら最高の笑顔だ。
 こいつが変に言いふらさなきゃいいけどな…。
 京志郎は、二人の様子を伺っている。

「キミちゃん寝たぞ」
 雄三が部屋から出てきて言った。リビングには、父と2番目の兄も帰ってきて全員が揃った。いや、京志郎も寝たらしい。
「そうか。雄、大変だったな。お前も休めよ」
 建設業を営む父親は、がっちりとした体つきで、色黒の顔をほころばせた。強面と言われるようだが、息子を見る目は優しい。2番目の兄、卓二は中学生。塾から帰ってシチューを食べていた。
「だけどさ、なんで泊めたの?家に帰さないと母親怒るんじゃないの?」
「話してある。明日、もう少し言うつもり。このままじゃ…喜美江ちゃんおかしくなるよ」
 朱莉は、夫のコップへビールを注ぎながら言う。
「う~ん…。全くどうしようもねぇな」
 父親は、ぐびぐびっと、ビールを飲んだ。
「話し合ってどうするの?警察に引き渡すの?」
 言ったのは、浩一郎。
「じゃないと、何も解決しないでしょ。だけど許さないと思うよ母親が」
「警察?」目を丸くしたのは雄三。「なんで警察に?何を言うの?」
「…ああ、雄もいたか」
 卓二が声を落とした。
「なんでもない。お前は知らなくて良いよ」
 と、スプーンを持つ手でしっしっ、と払うようにした。その仕草が気になって、雄三は眉根を寄せた。
「なんだよ、卓!なんで俺が知らなくていいんだよ。キミちゃん連れてきたの俺だぞ?」
「だから、なんで連れてきたんだよ。変なことに巻き込みやがって」
「…なんで?キミちゃん助けたんだそ。父ちゃん大変だったなって…」
 と、父親を見る。いつもそうだ。卓はいつも俺を仲間外れにしようとするんだ。父ちゃん、俺は悪くないだろ?気づいてくれ…。
「おう。お前は良いことをした。あの子、もしかしたら危なかったもんな。だから連れてきたんだろ?知らん顔しなかった。すごいぞ」
 雄三は、鼻の穴を膨らませて息を吐いた。そして、兄の卓二を、どや顔で見てやった。
「とりあえず母親に話をしてからだろ。あの子の気持ちもあるしよ…」
「喜美江ちゃん、知ってるのって?すごく心配そうな顔して…。そうだよね、知られたくないよね…でも、なかったことにするのはさぁ…」
「でも、途中までなんだろ?だったら、まだ良いんじゃないの?」
 と、卓二はしたり顔で言う。途中まで?雄三は話が見えない。
「何が良いの!卓、真剣な話なんだよ?あんたも誰かに話したりしないでよ?いいね。」
「わかってるよ…。馬鹿じゃねぇんだから。」
 と、卓二はいったん言葉を切った後「雄とは違うからね」と言って、雄三へ笑った…。
「なんだよ!」
 雄三は、卓二へ飛び掛かっていく、が、その前に浩一郎が腕を掴んで止めた。うがぁあ、吠える雄三に、卓二は尚も馬鹿にしたような笑顔を向け、ばぁか、と口を動かした。
「てめぇ!なんでいつも俺を馬鹿にするんだよ。1歳しか違わねぇのに!」
「1歳しか違わねぇのに、お前が子供過ぎるんだよ」
「兄貴だろ!お前が大人になれば良いのに、なんでそんなに馬鹿にする!」
「うるせぇな。馬鹿を馬鹿って言って何が悪いんだよ、ばぁか」
 うがぁああ!
「静かにしろ雄!喧嘩すんな。あの子が起きるだろ」
 浩一郎が言う。
「卓、お前も悪い。いい加減に雄を認めろ。こいつだって一生懸命だ」
 こいつだって、一生懸命…?
 雄三は、何か引っかかる。
 俺…一生懸命だけど…なんだろう?
「ちっ、わかったよ。俺が我慢すれば良いよね。いつでもそう。」
「お前がけしかけなきゃいいだろうよ。雄、お前もすぐ怒るのはやめろ。
一回深呼吸してから物を言え、良いな?風呂入って、もう寝ろ」
 父親が低い声で一括しその場は収まったが、雄三は何かひっかかったまま、風呂に入った。 
 なんで警察が出てくるんだ?喜美江は助かっただろ。もしかして、俺が連れてきたのは良くなかったことなのか?誘拐…されたとかで、喜美江の母ちゃんが怒ったとか?でも泊ってるってことはそうじゃねぇよな…。
 雄三は、湯船につかりながら考えている。
 そういえば、キミちゃん風呂入ってねぇよな…あ、その前に家でシャワーしてたみたいだった…。なんでだ?暑かったのかな、ガムが髪の毛についたって…だから髪の毛洗ったのか。
 …途中までなんだろ。だったら良いじゃん…
 途中まで?途中までだと、何が良いんだ?明日、喜美江に聞いてみるかな?何があったか話してくれるよな喜美江なら。それ以外は誰も教えてくれないし、京志郎と一緒に聞いてみようかな。やっぱり、友達の方が話しやすいしな。

 次の日、喜美江は学校を休んだ。
 喜美江の母親、大館芳美(おおだてよしみ)を呼び出し、喜美江の状態が落ち着くまで森田家で預かれないかと伝えると、驚きはしたが二つ返事で了承した。「よろしくお願いします…」などと、恭しく頭を下げてはいたが、一瞬、芳美が唇の端を上げたように見えて、朱莉は気になった。
 まさか、とは思うが…。
 熱を出したことにして、学校へ連絡させ、喜美江は朱莉と過ごした。一緒になって雄三も休むと言い出したのには辟易したが、喜美江が行くように説得すると、後ろ髪をひかれながらも、雄三は渋々学校へ行った。
「雄、喜美江ちゃんは、学校を「熱」で休んでるんだよ?うちにいるとか、元気だとか言っちゃダメ。わかってるね?」
「おう。余計なこと言わなきゃいいんだろ。俺だってわかってるよ」
「…そう。俺が連れてきたとか、髪の毛切ったとか…も言っちゃダメ。聞かれても知らないって、何も言わなくて良いよ。」
「…遊び仲間とかは?どうやって言えば良いんだよ。喜美江の家とか言っちゃうぜ?お見舞いとか言ってさぁ…」
「だって、病気で休んでるんだから、家に行っちゃダメって言えば良いよ。その子たちにはお母さんがおうちの人に伝えるよ。雄は心配しなくて良い」
 雄三は、もっとたくさん聞きたいことがあった。が、学校に遅れるし、母もそれ以上何も言ってくれなさそうだし、半ば諦めて家を出た。
 本当は、喜美江のそばにいてあげたいんだけどな…。今日も、泣いちゃうかもしれないだろ?俺が話して、笑わせてあげるのにな…。よし、夕方、寄り道しないで早く帰ろう!
 そう誓って、学校へ駆け出した。

                       (こげ茶色2に続く)


※お暇なら読んでね話

 こげ茶色は、1話で終わる予定でしたが続くことになりました。もしかしたら不快さを感じたり精神的な苦痛などを感じる方がいるかもしれません。
 苦しい、つらい、可哀そう、怒り、気持ち悪さ、イライラする…。
 誰の何に、どんな感情が浮かんできますか?

 ここまで読んで下さりありがとうございます。
 
 
 
























































































 

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