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【舞台感想】パンドラの鐘【幼児性にみる演出の違い】

 熊林弘高演出「パンドラの鐘」を見てきました。
 内容そのものは野田秀樹演出.verを9年前に動画で視聴済み。そのときの印象はあまりなかったのですが、今回の熊林版を見たあと、改めて動画を視聴して、むしろ野田版の解像度が上がってしまった…。ので、内容としてはそっちの方が多いかと思います。


●野田版「パンドラの鐘」
 蜷川幸雄との演出での競演だった、とあとから知る。そちらは未視聴。ヒメ女役が大竹しのぶと聞いて、見たいぃぃぃとなっている。
 さて、野田版の方だが、天海祐希がヒメ女役をしている。初見の時はどうにもその役が(女王としての威厳はすばらしかったものの)合わないような気がして…。14歳の少女王としてはちょっと…と思っていたのですが、再視聴ではむしろ彼女が演じた「二面性」がこの劇における肝ですらあったかもしれない、と思い直しました。女王としての説得力と、少女のかわいらしさを同時に演じるとなると、適役だった…。
 全体の構成は、1941年の日本と古代を行き来しながら、「パンドラの鐘」の秘密に迫っていく。
 この「古代」が、当初、エジプトか?と思わせつつ、大航海時代の英国へと読めるような展開になっていく。当時の王がエリザベス女王だったこと、日本と同じ島国であることなどの類似性を思い浮かべる。
 野田劇の特徴として、空間的・時間的に遠いところから、だんだんと「日本」「現代」へ迫って来るのが面白い。
 ピンカートン夫人の衣装や、中央に据えられた鐘の形、長崎という舞台からして、1945年の8月に集約していくことは目に見えることなのだが、そのメッセージを単に「天皇制の批判」とするのは容易だろう。ヒメ女は「王の務め」として鐘の中に入り、埋められていく。1941年に戻ってアメリカへ戻るタマキは無邪気に言う。「この国には王がいて、守ってくれる」と。
 現実にはこのあと長崎には原爆が落とされる。政府側は最後通牒を知っていたが、天皇が実際にどうだったのか、私の勉強不足でわかっていないのだが、しかし仮に知っていたとしてすべての負債を「王」に押し付け、あの戦争を終わらせることが正しいことだったのか、と問われると、令和の今ははっきりと「NO」と言える。天皇はもはや「国民の象徴」となった。その「王」を埋めることは「国民」を埋めることに等しいのではないだろうか。
 そうやって考えると、ヒメ女とミズヲが「禁じられた遊び」に興じていくさまもまた、はっきりとしたメッセージをもって理解される。仏映画の古典的名作であるが、戦時下の中、周りの大人たちに振り回される幼子たちの話である。そう、ヒメ女とミズヲはあの映画における「幼子」である。そして、この劇を覆っている「幼児性」が意図して演出されていることがよくわかる。
 「鈴」と「鐘」の言葉遊びや、キノコ雲を模した相合傘の落書き。細かな演技の一つ一つに「遊戯」の感覚がある。これによって、天海祐希が演じるヒメ女の二面性──王女としては「大人」を求められ、一方、その内実は十代の少女に過ぎない──の意味が補完される。そう、彼女は一人で二役をすでに演じていたのである。
 これを踏まえて、1941年と古代とで二役を担う熊林版の演出を考えてみる。


●熊林版「パンドラの鐘」
 野田版が異なる時空を結び、未来へ希望を投げる結末(の結果がどうであれ…)であるならば、熊林版は同じ役者で二つの時空を結び、ループ状にして物語を閉じる結末である。
 パンドラの鐘をアメリカに持ち帰ったピンカートン財団は、それを博物館に飾るのであろう。そして、また誰かがそれを掘り起こして…という具合だ。野田版では狂王のみが二つの時空を繋いでいたが、熊林版では一人二役の演出のため、ぴったりと閉じるようにして物語がループする。
 このループ構造が「歴史は繰り返す」という意味でしかないのか、それとも教訓的な何かなのかはわからないが──このメッセージがわからないというのが、「新解釈」としてはどうしても「弱い」と思わざるを得ない。
 一人二役になったことによって、物語自体が(時空が飛ばないために)わかりやすくなったが、同時にヒメ女が担う「二面性」が薄れてしまい、モチーフとしてあった「禁じられた遊び」の「幼児性」が形骸化してしまった。ヒメ女/タマキの二役で手一杯となってしまい、ヒメ女が元々抱えていた女王/少女の対立が見えにくいのである。そして、この弱点が、(少なくとも私の印象として)「ヒメ女とミズヲの恋物語」に説得力を欠かせる結果となった。どうにも、この演出のヒメ女はミズヲに恋をしているように見えないのである。
 この二人の「幼さ」「恋」をもう少し押し出すことができたならば、その対立構造としてあったハンニバルとヒイバアの関係、その演出には理解が及ぶ。この二役が主役に対して「大人/子ども」の構造を持たせている。
 「七代に仕えた」とされるので、実際のヒイバアは相当な年齢なはずであるが、今回の演出では(若いとまではいかないが)妙齢の、ハンニバルをたぶらかせる程度の年齢が想定される。野田版では完全に「婆」なのだが、このヒイバアには色気がある。ここの解釈は非常に面白い。序盤で助手に迫るピンカートン夫人の意味も、ここで効いてくる。
 ヒイバアがある程度「若い」となると、「七代に仕えた」王たちは短いうちに次々と代わり、彼女はその政権争いの中を生き残ってきた役人と見ることができる。そう、有事の際にはハンニバルにすべての責任をかぶせて切り捨てたように。そのためには色仕掛けも辞さない、その手腕。
 さらに、この「責任逃れ」のキャラクタは、今の日本にまで続くテーマのような気がする。「王」にすべての責任を押し付けて、逃げおおせているのは「役人」なのである。
 ここをもう少し掘り起こせれば、なるほど「新解釈」とも思うのだが、元々の脚本の縛り、そこから導かれるテーマが「ヒメ女とミズヲの悲恋」である以上、うまくハマらない。例えば、タマキとオズの結末も悲恋となるならば、もう少し強調できたかもしれないのだが、そこまでウェットな展開ではないからこそ、タマキのキャラが活かされるのである。


●その他、もろもろ
 以下、熊林版の演出について。
・小さなシアターなので、それゆえの演出が面白かった。下から上から声が聞こえてきたり、上の通路を使ったり。
・タマキ役の方の足の使い方が大変らぶりー。
・途中、暗闇で光が点滅する演出が何度も、かつ長時間続き、ポケモンショックを思い出した。注意喚起をするか、やめるかした方がいい(私は目を閉じて覆いました…)(気持ち悪くなったよ…)
・セリフやシーンがところどころ端折られており、野田版でスッと通る部分が通らないと感じるところがいくつかあった。

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