【観劇】野上絹代演出「カノン」【感激】
はじめに。
幾多の中止と延期を乗り越え、少ないながらにもこうして公演に踏み切ってくださった関係者さま各位に多大なる感謝を。
諦めずにいてくれて、本当にありがとうございます。
執念の観劇
いきなり自分語りをします。
私が舞台にハマるきっかけは、約◯年前、高校生だった頃、一つ上の学年のクラスがやった文化祭の出し物でした。
演劇が盛んな学校で、最高学年である3年生の花形。その道に詳しい先生に言わせると(贔屓目もあったでしょうが)「毎年、どのクラスも全国レベルの出来」。もちろん別に演劇部はありました。だから、演劇部+各クラスで7〜8つくらいは劇が出し物だった気がする。多くね?
その時にたまたま見た演目が「カノン」でした。私は文化部を掛け持ちしていて、文化祭当日はそこそこに忙しかったので、自身のクラスの出し物以外で劇を見たのは高校生活でこれが最初で最後でした。当時、鬱屈した高校生活を送っていた私にとって、その表現方法の斬新さ、言葉遊びに繋いでテーマへ昇華されていく脚本に、ドボンと落とされたのをよく覚えています。しばらく放心状態になりました。
以来、野田秀樹さんの脚本を読み漁り、チケットが自分で買えるようになってからは生の舞台も観に行くようになりました。ですが、「カノン」だけはずっと再演されず(あるいはその機会を私が逃し)、今年ようやく……というところで延期になり。
どうしても見たかった。立ち見でもいい!と、当日券のために◯時間並んで、ようやく生の目で見れた舞台でした。
コロナ対策で減席されていたのでしょうか? 案内されたのはど真ん中最前列。奇しくも高校生の頃のあの観劇体験が原風景としてフラッシュバックします──あの時もお客さんが多くて、前の方にしゃがんでの案内になったんだよなぁ。役者の汗が飛んでくるほどの近い距離。狭い格技館での興奮が思い出されます。
そんな私情盛り盛りの舞台。
冷静さなんかなく、感想を綴ります。
開幕前のBGM
TVのCM風のBGMがずっと流れいて、初めのどこかから音源を引っ張ってきたのかと思っていたのですが、よくよく聞くと同じ声の人がいる──これ、オリジナルか?となって、幕が開ける前から震えました。内容は昭和のTVやらラジオやら?
「カノン」のモチーフの一つに「あさま山荘事件」があった(記憶がある)のだが、その「昭和」への「令和」の「カノン」からの合図なのだと理解。幕が上がる直前、繰り返される「7月11日」の言葉に「はじまったぁ!」と興奮。
※興奮していた聞き違えたのか、これ、「7月14日」(バスティーユ牢獄襲撃事件→仏革命)が正しい? あれ??
オープニングから中盤の「カノン」まで
終わりから始まるこの脚本のオープニング。プロジェクトマッピングを用いての、まるでアニメのような演出で始まり、流れるような台詞回しと言葉遊び、演者さんたちの動き。太郎の運命が翻弄されるが如く、舞台があれよあれよと動いていくスピード感はさすが野田秀樹の脚本…と震えながら、その渦に浸らせてもらいました。
盗賊団一味の名乗りのそれがまさに戦隊モノのヒーロー、原始を辿れば歌舞伎のそれで、後楽園遊園地で僕と握手!という文言が頭を掠めつつ。
絵画が重要な小道具でもある本作。実際の小道具も絵で表す演出、その持ち方や場面によって窓にも牢獄にも武器にもなる枠の面白さ。観るものに想像力を強いる舞台演出が大好きなので、とても斬新で楽しかったです! このへんの見立てはのちの野田劇に通じていて、その原初を見るお思いでニコニコいたしました。特に沙金の盗みのシーン!(後述します)
中盤のクライマックス。太郎が同僚を殺した直後。タイトルにもある「カノン」が流れる中、熱狂に巻き込まれ、転がれ落ちるよう、悪の道を進んでいく太郎の心象を表す一場面は、まるで絵画の一枚のように見えました。同時に、もし、歴史的に彼らを描くのならば、このシーンが一枚になったのだろうとも。
…記憶している限り、今作で「カノン」がBGMに使われたのはここだけに思うのですが、合っている?
アンサンブル(に収まらない人々)
名前のない脇役の方々にも(当たり前ですが)個性があって、性格があって、場面が変わるごとに次はこの役か、こんな表情をするのかと、どこを見ていても大変な見応えがありました。
沙金が街中で盗みを働くシーンは特に印象的で、盗まれたその後の表情や顛末が一つの画面で展開されており、舞台ならでは楽しさがありました。こういうのがあると、もっと引きで見たいと思ってしまいます(前方の席で残念に思えるなんて、贅沢ですね)(公演がもっとあれば、きっと、絶対に二度目を見たと思います)
舞台のラスト
原風景のある高校演劇のラストは、「カノン」が嫌というほど、鳴り響いていた。が、今作はそのBGMもなく、静かに終わる。ここで「カノン」が鳴り響いてもよいところだろうに。
太郎の絶望に寄り添うように、オネガイから生まれた子猫のキボウが、生まれたての真っ赤なドレスを身に纏い、足元で無垢な表情のままあくびをしていたのが、とてもよかった。
これはきっと、野上さん独自の演出かな? あの子を逃したことが、太郎にとっての「希望」なのかもしれませんね。
以下、役者さま&各キャラクタなど
※主演の役者さま以外見てなかったんですけど、戯曲集の初演キャストを見ると、タイミングちょうどに解散された芸人さん二人の名前があり、それを見ても号泣した。
※ア◯トークにも精神を救われているんで。
猫
第一にこの子を置く。
少女であり母であり、人であり、人でない。野田劇には語り部にこういう性質(境界線が曖昧)のキャラを置く特徴がありますが、その先端かと!
ここの役割、めちゃくそ難しい上に、今作では「沙金/猫」の二代ヒロインだからね!?
ぽっこりおなかで出てきて「大変な時にマジで大変なんだけど!?」ってところから、何も知らない赤いおべべの子猫ちゃんが、太郎の足音で彼の切ない慟哭を聞きながら、「何も知らんし?」って感じで「ふわぁっ」と欠伸したのを見て、なぜか。。。救われた気がしたんだよね。
あー。この子が生きる世代のための戦いだけど、この子はそれを知らんでもいいんだなぁ、って。それはとても幸せなことだなって。
高校の時に見たときはさほど印象に残っていない役柄だったけど、今回は強く残ったのは、やはりあのラストの演出のせい? いや、記憶もほよほよだから、書き換えられていくのだけどね! でも、もうこっちしか、残らんわ!
太郎
まっすぐな目の光が、「あぁ、太郎だわ」ってなった。倫理観というか、生き方が一貫しているので、その翻弄加減が、大変引き立つ。
今、改めて配布されたどでかいパンフ?を読んでいて、「演者さんたち、一年半?」「やぁ、無理でしょ、昨日生まれた赤子がイヤイヤ期に入る年月やで!?」となる。
…改めて、ありがとうございます(泣いている)
ホンとしては、沙金の方に引きづられるのだけど、それがゆえに、「平凡を演じる難しさ」がこの役にはあるかと思う。「真面目に生きてきた青年が、一人の女に出会って、人生を狂わせる」──その説得力が、あった。
男は恋によって狂うよね。
その狂気が強ければ強いほどに男の執着は強く、女の気持ちが醒めるのは早い。
だからこそ、あの女を、あの人を、失うのが、辛いんだよなぁ!?
沙金
私の「ファム・ファタル」リスト(言葉からしての矛盾)の中に、彼女がいます。
高校の時に見たそれはすずききょうかさんが演じなすったそれを模倣する形であった、と今なら、何となく察せられます。演者さんの解釈、キャラクタによって、大きく変わるのがこの「沙金」というキャラ。ホンの面白さを体現する存在。
今作の沙金は「一人の女」として生きる側面が強かったように思います。目力の強さよ。
「沙金」はそのバランスが難しく、お頭としての彼女と、恋に奔放な彼女と──かっこよさとかわいらしさ、安定と不安定の狭間をゆらゆらしている。
太郎の「おまえを俺に救わせてくれ」のセリフに明確に答えないあたりが、もうすれ違っている。おまえなんかに救われてなるものか。思い上がるなという無言の答え。自由を体現する彼女が、一番「不自由」に見えました。
難しいだろうけど、再演…してほしい…。
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