【映画感想】ハッチング -孵化-【ドフェチ向け】
久々に単館にて鑑賞。
ゴールデンウィーク前半の日曜でファーストディ、しかも前日にテレビ番組で紹介されていたせいか、満席でした。
北欧系美少女の嘔吐シーンをモザイク&フレームアウトなしで真正面から撮った時点で、100点満点の映画でした。私にとっては。
…いや、ちゃんと意味はあるのですけども!
「フィンランドに住む一般家庭の幸せな日々」を動画配信している母。娘は体操の選手でしなやかな肢体が美しい。父と幼い弟はそっくり。いまいちパッとしない二人。
とある動画録画中に、この家族の住むリビングに一羽のカラスが飛び込んだ。母がしつらえているだろう、「すてきなおうち」の中はめちゃくちゃにされる。
この冒頭で「取り繕っていても脆い家庭」というのをわかりやすく暗示してて笑ってしまった。あんなヤンチャな年頃の息子がいて、リビングが割れ物だらけなのって、つまり息子の遊び場は家庭内にないってことか? この母親、旦那によく似た息子にはあんまり興味がないんだよね。むしろ邪険にしている?
対照的に、娘への期待というか、過干渉というか、「私のすてきな生活(=幸せ)のために存在する娘」としての圧が強い。いわゆる毒親というやつだろうけど、こういう精神的な虐待を受けている子どもって、ある程度の年齢になって社会に出るまで己の環境に気付けず、ただただ親への思慕を高めていくんだよねぇ。つらいわぁ。
…というように、「こんな家庭で育った娘はしんどい」の典型のようなエピソードがどんどん続く。
極めつけが母親の浮気。それを肯定するよう、娘に価値観を押し付けていく。「恋をしているの」と浮かれた調子で、娘にガールズトークを投げかける。その時の引き攣った娘の表情が何とも痛々しい。旦那である父親もその事実を知っている。しかも行き詰まった体操の大会前にその浮気相手のところへ行かないかと持ちかける。
そこで娘が見たのはもっと残酷な事実。浮気相手には小さな赤ん坊がいた。その子の実母はお産で亡くなったという。その赤ん坊を、まるで我が子のように存在するだけで愛でて、肯定する母親。母の期待に応えるべく、体操を続けていた娘は大きなショックを受ける。
娘のしんどいエピソードが続く中、彼女は例のカラスが残した卵を密かに育てていた。辛い現実から目を逸らすよう、卵へ愛情を傾ける娘。
そして、大きく育った卵から生まれたものは。
娘と卵から生まれたもの(=鳥ちゃんと仮名します)の感覚がリンクしていることは、あらゆるエピソードで強調されます。
私は途中から完全にこの映画の仕掛けにハマってしまい、娘というより、この鳥ちゃんに感情移入してしまった。だが、それは娘ももう一方の感情をも代弁している。この仕掛けが、非常にうまい。
鳥ちゃん視点だと「ママ(娘)がごはん(嘔吐物)くれた。うれしー!」「なんか頭も撫でてくれるぞ?」「そうか、ママの姿に似れば嬉しいのかなっ!?」→だんだんと娘の姿に近くなる。
「ママのママは、実の子どもでない赤ん坊に愛情を注ぐのはおかしくね?」「ママのパパでない人とつがってるし…!?」「とりま、この赤子を消すしかないな」→赤子に手をかけようとする。
…みたいな思考回路で、ママであるとこの娘さんの不快に思うものを次々に排除していく。それは朝にうるさく吠える隣の家の犬とか、大会出場の枠を争う隣の女の子とかにも及ぶ。
嘔吐もそうですが、カラスを代表とする大部分の鳥の生態を知っていると、「人間の営み」がいかに不自然なものかがよくわかります。
先の嘔吐物は親鳥が子に分け与える離乳食だし、カラスもそうですが、鳥類は一夫一妻制で夫婦が協力して子を育てる種が多いです。鳥の世界観的に、人間の感性で気持ち悪く、恐ろしく書いているだけで別に普通のことなのですよ。
むしろ鳥ちゃん目線からすると、ママの世界、マジで狂ってんですよね。
しかし、(浮気はともかくとして)「母親のいない赤ん坊のいる家庭を、互助的に別に家庭ある女が助ける」って、北欧的に一般的なのか?
恥ずかしながらフィンランドといえばムーミンくらいのイメージしかないのですが、あの世界も「ムーミン一家が育児放棄された子どもたちを育てている」と見ると、北欧の世界観が垣間見えるんですけども。福祉の充実=社会で子どもを育てようという精神は、歪むとこういう形になる? どうなんだろ?
というわけで、高度に発達したがゆえに生きづらい人間代表の娘と、そんな娘を母に持ったがゆえに混乱する無垢な鳥ちゃんといった感じで、物語は終わります。
この映画、本国ではどういう受け取られ方してんだろか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?