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【散文】ヤマブドウを手に入れるためには

ヤマブドウは奥山に多く自生する。
急斜面の、さらに雑木に囲まれた場所に生えるので人が分け入ることは困難である。
ヤマブドウと訊いて初めに想像されるものは実だろう。
葡萄と名が付くのだからごく自然な発想だ。
しかし野生において、ヤマブドウの木を見つけだし、その実を手に入れることは非常に困難である。
ヤマブドウは雌雄異株の樹木であり雌木のみが実をつける。
雌木であっても必ず実をつけるとは限らないので、ヤマブドウの木を見つけられたとしても実が生っていないことが殆どだ。
運良く実が生った木に出会えたとして、それは人の手の届かない高所に生っており落胆することだろう。
ヤマブドウは円錐花序と呼ばれる配列状に小さな黄緑色の花を多数咲かせる。
雌花が花弁を落とすと、じきに皆が想像するヤマブドウの形へと成る。
それらは人々に見つからず、見つかったとしても触れられず、やがて落葉の絨毯へ落下する。
ヤマブドウの実は自らが生っていた天高くを見上げながら、地を這う野生動物の訪れを待つ。
その身が潰れるまでに人と出逢うことは難しい。


ヤマブドウとは、そういうものなのだ。


艶やかな髪が風に揺れ、風は香を漂わせる。
稀にその甘ったるい香が僕のすぐそばまで近付いて、僕へ僅かに影を落とす。
僕は、その人が陽光を遮るあまりに短い一時を永遠にしたくて堪らなかった。
高嶺で咲くその人へ、口づけを送りたくて堪らなかった。

やがて時は経ち、斜面を駆け下りた僕がその人を見ることはなくなった。
サテンと見紛う程の黒髪も、僅かに頬紅で色づいた笑みも、本性を覆い隠すように振りまく香も、上手く思い出せなくなっていた。
綺麗な記憶として、タンスの深いところで休ませていた。
落ち葉の絨毯をしゃくしゃくと鳴らし歩いていると、時折靴裏に水気を内包した膜が弾ける小気味よい感触がする。
盛夏を果敢に生きた生命の痕跡を汚れたスニーカーで潰し、歩く。

ふと顔を上げ、上方へ視線を遣った。
そこに高嶺の花は居ないが、その人に憧れていた春の記憶が足先から染み込み始め、毒のように身体中へ回っていく。
毒は僕に幻を見せた。
嶺を見上げていたはずの僕の視線は落ち葉の絨毯へ降りていて、その人が居た。
彼女は枯葉色の丸こい髪を左手で掬う。
耳にはささやかな銀色が映え、交差した左手にも誓いの銀色がよく映えていた。
頬紅のせいか、夕日のせいか、立ちすくむ僕へ向けられた彼女の笑みはあの頃よりも艶っぽく見えた。

けれど、彼女はその人ではなかった。
僕の心を弄んだその人ではなかった。
立ち込める葡萄の香が幻を晴らす。
そこには雑踏と街路樹が変わらず在るだけだった。



お題:ヤマブドウ、傷害罪、初期設定

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