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【散文】八百屋のまりちゃん

ふと、前方できらりと光る何かに目を奪われる。
多くの人が行き交う歩道に面した八百屋の店前、腰をいわせてしまいそうな前傾姿勢で黙々と大根を並べている女性がいた。
彼女の首元にはネックレスが、今も眩しい陽の光を受け止めている。
彼女は深々と黒色のキャップを被っていたが、後頭部で揺れるポニーテールは明るい色をしていた。
まだ初夏とも呼べない季節なのにゆるりとしたTシャツを着、健康的な小麦肌をさらしている。
日頃から野菜の詰まったダンボールを抱えているのだろうか、腕はやや筋肉質であった。

「まりちゃん、次キャベツよ」
店の中から掠れた大きな声が聞こえた。
八百屋の店主のものだろうか。
声に気付いた品出し中の女性の背がぴんと伸びる。
「はーい」
まりちゃんと呼ばれた女性店員はそう返事をしながら、掠れ声の主の方へ振り向いた
「あ」
そこに私がいた。
キャップの影が落ちていた顔がはっきりと見える。
彼女と目が合った。

彼女は咄嗟に目を逸らし、大根が詰まっていたであろう空のダンボールを抱えた。
「……っしゃいませー」
そして、誤魔化すかのように店員としての振る舞いをした。
店の人への返事よりも幾分か高い声であった。
彼女は店の中へと入っていく。
決して彼女の背を追っていたわけではないが、店前を一瞥した後、私も玄関マットを踏んだ。
「いらっしゃいませー、いらっしゃいませ」
店主らしき人物の掠れ声が響く。
日差しに頼りきりの店内は店前の雰囲気に反して薄暗く、おまけに天井が低かった。
やたらと識字しやすい値札の群れ。
所狭しと並べられた野菜たち。
それらを品定めし、気に入ったものを緑色のカゴへ収める数人の客の姿があった。
まりちゃんと呼ばれた女性店員の姿もあった。
彼女は、旬菜の若葉色に特売の赤色が映えるキャベツコーナーの品出しを行っていた。
相も変わらず黙々と。
私は先程の狼狽える彼女の姿を思い出し、春キャベツへは近寄らないようにした。
キャベツがなくとも成立する献立を頭の中で組み立てつつ、彼女と目を合わせないように注意しながら狭い店内を回った。

カゴを預け、レジの前に立っている。
店員の華麗なるレジ捌きをただ眺めていた。
いや、違う。
レジ係は私の前の客から、まりちゃんと呼ばれた女性店員に代わってしまっていたのだ。
彼女の顔を見ないように、彼女の手元や合計金額の表示などへ視線を逃がしていた。
彼女は金額と商品点数をうわ言のように呟く。
やはりそうだ。
やはり聞き覚えのある声だ。
彼女は私の知るまりちゃんだった。
入店前に抱いた疑念は遂に確信へと変わった。

しかしまりちゃんだとして、声を掛けるべきではないのだ。
機械からレシートが吐き出される。
声を掛けたところで、当時関わりが薄かった私のことなど覚えていないのだから。
まりちゃんはレシートを破り取ってこちらへ差し出した。
すっかりレシートに気を取られていて、不意に声を掛けられるだなんて思いもしなかった。

「あのさ……アタシのこと、覚えてる?」

レシートと共に問いが差し出された。
その声は店員としての高い声でなく、彼女の素に近いものだったと思う。
突然のことに上手く声が出せないことにすぐ気が付き、私は二回ほど首を縦に振った。
レシートを受け取れば、彼女と目が合った。
まりちゃんだ。
まりちゃんはばつが悪そうな笑顔を浮かべ、言った。

「いつもありがとね」

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