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翻訳はむずかしい

原文の英語から日本語に翻訳された小説で主人公が「ミスターブラウン」だとしたら、「ミスターブラウン」をどんな人物だと想像するだろう。

日本育ちの私にとって「ミスターブラウン」は「山田さん」ではない。「ミスターブラウン」はミスタードーナツやミスター慶應に近い。さらに欧米文化に合わせようとしながら敬称を付けたくて譲れない日本文化がキメラ合成してできたところの珍妙な「ミスタートム」も意識の上にちらついている。

翻訳者は意図的にミスターを追加している。

翻訳者にとっては「ブラウンさん」でも「ブラウン氏」でもない。「ブラウン氏」と訳すると小説の語り手は「ブラウン氏」と言い、登場人物の会話では「ブラウンさん」というだろう。(00年代のヲタクでない限り「ブラウン氏」と呼びかけることはない。)

「ブラウン氏」と「ブラウンさん」の二つの表記になると文章全体のリズムは崩れる。原文ではMr.Brownで登場し、リズムを刻み、主人公を印象付けるが、翻訳すると半減する。

では、「ブラウンさん」に統一してはどうかと思う。そこでは「文化の翻訳」の足を大いに引っ張る。かつて、かの有名なパトラッシュは「斑」といった。文化的に日本語話者にパトラッシュでは馴染みが悪いと考えられてのことだろう。

斑。抵抗はない。聞き慣れた言葉に面白いお話。

だが、「パトラッシュ」と名付けられていることもまた物語の一部ではあり、作者の意図ではないのか。とすると、「斑」では何かが欠落するのではないか。

つまり、翻訳「ミスターブラウン」は日本語としての自然さより、文化を伝える目的であっただろう。「ミスターブラウン」はミスタードーナツであり、ミスター慶應であり、ミスタートムと同じ仲間ではあるが、今回のこの小説に関しては違うのだぞと自分に言い聞かせながら小説を読んだ。

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