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『わからない』をポジティブに捉える能力

ひさしぶりの投稿になります。
「いろいろと考えることがあって文章を書く気になりませんでした」という言い訳は用意してありますが、僕自身の飽きっぽさというか、継続力の無さというか、気概の足りなさというか、根性の無さというのが理由です。

まぁ人生もどっぷり終盤に入っているのに、何か残せるものもなく過ごしてきてしまったのもそういうところに原因があると思っています。

さて、このまま note もフェードアウトして埋没していくのだろうと思っていたのですが、最近始まった  いんよう!『科学ニュース雑談』を見ていてちょっと書きたくなりました。

とはいえ配信の内容についてではありません。
何度か聴き直さないと専門性が高くて理解するのが難しい、この“場”に集う 「いんよう!」ファンの方たちのチャットを見ていて感じたことです。

世界中が新型コロナウイルスに翻弄され続けてもう一年以上になります。
この間、いろいろなデマや憶測が飛び交い、正しい情報が伝わらないという問題が生じています。
さすがにいまだに「新型コロナは存在しない」という主張をされている方がいるのには苦笑いを通り越して心配になりましたが。

僕が興味をそそられたのは、『わからない』ことに対する反応の違いです。
「いんよう!」ファンのみなさんは『わからない』ことを楽しんでいる方がほとんどです。
しかし、新型コロナウイルスやワクチンに対して不確実な情報やデマを拡散する方は『わからない』ことに対する不安だけでなく苛立ちや怒りすら感じられるコメントをしていることが多いように見えます。
『正解を教えろ!』『わからないとは無責任だ!』『何かを隠しているに違いない!』とどんどんとネガティブな反応がエスカレートしていきます。

これは日本に限った話ではなく海外でも似たような反応をする方々の様子は報じられていて、それもまた興味深い現象です。

ここまで考えてきて、僕は昨年末の「いんよう! 第124回【科学コミュニケーションは誰がために】」でのサンキュータツオさんの言葉を思い出していました。
(実はこの回の感想を長文で書いていたのですが、あまりに冗長なのでお蔵入りになりました)

この中で語られている「勉強」と「学問」の違い。
既に解明され正解の出ていることを憶えることと、正解がまだ出ていない命題を深掘りし正解に近づいていくことの差に激しく脳を揺さぶられました。
それなりに受験戦争をくぐり抜けてきた自分は「勉強」はしてきたかもしれないが「学問」とは何かを知らずに半世紀も生きてきたのだなぁと。

誰かが努力を重ねたどり着いた『正解』という果実だけを求め、果実が見つからないと文句を言い、熟れていないと不満を言う。
実は『わからない』ということも重要な学問の成果であるにもかかわらず、無能呼ばわりし人格まで否定する。
『わからない』という研究結果をまったく評価せず、エビデンスが不明確な怪しげな『正解』に安心をする。

この視点に気がついた時、『わからない』ことをネカティブにしか受け取ることができない人は世の中にはけっして少なくないのだと実感しました。
「これは現代の教育制度、人物評価制度の弊害なのかもしれない」などという感想も頭に浮かびましたが、それはまたテーマが壮大すぎるので触れませんけど。

みなさんは、『わからない』をポジティブに捉えますか?
それともネガティブに捉えますか?
僕は『わからない』ことを発見できたことを楽しむと同時に、将来『わからない』ことに対して『正解』が出てくる可能性があることにワクワクできるような人間でありたいと今さらながら思っています。

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写真は先日炊いた今シーズン一回めの「たけのこご飯」
冬は冬で美味しい食材も多いですが、春はまた違った生命感溢れる食材が多く出てきて楽しみです。
今年は何回食べられるかな?