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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」6

いち早い復興を支えた、現金払いのモットー

 一九四九年(昭和24年)、難波に珈琲店「オランダ」を創業し、以前は喫茶学校の講師も務めていた山田哲夫氏は、かつて貞雄氏に焙煎などの相談を受けていたという。「人の言うことを率直に聞いて、すぐ実行に移す人やった」と、当時のことを記憶している。しかし、それ以上に貞雄氏らしい逸話が、当時、珈琲豆の卸もしていた「オランダ」に豆の買付けに訪れた時だった。「全て現金で支払ってたんやけど、お札がどれも土臭かった。土に埋めてたと聞いたけどな」。はたして、英子氏によれば、「父は売上げは使わへんから、戦時中、現金を一斗缶にぎっしり詰めて、防空壕に封をして入れてたの。後で開けたら湿ってたけど」、との由。

 戦後に円の切替えがあり、ヤミで大量に買った証紙を貼り銀行に持っていった”土臭い札束”は、当時にして数百万円分もの現金になったという。「父と二人で、何も知らないまま大きな風呂敷持って銀行へ行って。着いた時に、”英子それ何か分かるか?”と言われて初めて中身を聞いたら、”お金だよ”と(笑)」。ツケなど一切せず、とにかく現金払いをモットーにした貞男氏。それが戦後の混乱期に何よりの信用になった。「”丸福さんはすぐお金にしてくれる”というので、常にコツコツケチケチ貯めたんですね、私らに贅沢させずに(笑)。パッと土地買って、店を建てたんちゃいます?」と、呆れつつも感心したように振り返る。

 まさに不幸中の幸いで、戦災を最小限で乗り切った貞雄氏。”商売には角家を買うもの”と、千日前通から少し北、相合橋筋沿いの角地に新たに丸福珈琲店を開店した。今の三分の一ほどの長細い店内に、当初はカウンターと壁際にベンチシートを設置し、どの席からも店主と対面になるレイアウトだった。貞雄氏が現店舗に腰を据えた一九四六年、まだ大阪の街には見なれぬアメリカの兵士たちの姿が目立っていた。「当然、珈琲は外来のものだったから、その頃は、うちもお客は進駐軍がほとんど」。そう苦笑する英子氏の記憶によれば、難波高島屋、そごう、大丸、精華小学校など主だった建物はGHQに接収され、外観を迷彩色で覆われていたという。

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舞台人たちに愛された"芝居街の楽屋"

 しかし、そんな進駐軍よりも、早く丸福珈琲店を訪れたのは、新国劇の看板役者、曾我廼家五郎八と辰巳柳太郎の両雄だった。片や、一九四八年(昭和23年)に旗揚げされた松竹新喜劇で藤山寛美らと活躍、片や渋い演技と豪快な殺陣で勲章も受賞したスターの来訪に、貞雄氏もさすがに面食らっただろうか。戦後最初のお客がこの二人だったというのは、いかにも"芝居の街"・道頓堀界隈ならではのエピソードだ。それ以来、来阪の際には必ず立ち寄り、楽屋に差し入れしにいったりもする関係が続いた。

 大空襲で五座は焼失したものの、“三千人劇場”と呼ばれた千日前の大劇(大阪劇場)は終戦から一ヶ月で再開。松竹歌劇団の「秋のおどり」が再開され、 大入り満員の盛況を博した。 また一九四八年には中座も新しく立て直され、盛り場も少しずつではあるが、元の姿を取り戻しつつあった。「終戦直後にできていたというので、みんな知ってたんでしょう。お茶でも飲もかと言うたら他になかったんやろうね」。未だ焼け野原が目立つ中でいち早く開いた店には、珈琲の香りに誘われて演劇・舞台関係者が相次いで訪れた。

 その頃、進駐軍の影響でジャズが蔓延していた界隈では、「メトロ」、「富士」などのキャバレーがオープン。〈大阪キューバンボーイズ〉などの本格的なライブ、バンドの演奏が盛んに行われ、その合間に音楽関係者もよく現れた。とりわけ、美空ひばりのバックも務めた〈大阪キューバン〉の母体〈東京キューバンボーイズ〉には、"ビッグ4" と呼ばれたピアノの中村八大、べースの松本秀彦ら豪華な顔ぶれがそろっていた。マンボ、チャチャチャなどのリズムを通じて、日本にラテンのリズムをもたらした彼らの他にも、『買い物ブギ』で知られる笠置シズ子も大劇やキャバレーでのステージがあるたびに顔を見せたとか。

 さらには、「戦後すぐの時分に"外国映画に出る"とかいう話をしてたのを覚えてる。小さいおっちゃんって感じの人だった」という俳優の早川雪舟も、この頃に丸福珈琲店に足を運んだ一人。一九五〇年代に入ると映画も掛かり始め、 山田五十鈴や高峰三枝子といった名女優も、大劇での仕事帰りなどに姿を見せるようになった。

 街の復興とともに日常の姿を取り戻しつつあった店は、ほどなく矢継ぎ早に店を拡張していくことになる。再開の喜びも束の間、また、嵐のような忙しさに追われる日々が訪れる。(つづく)

(『甘苦一滴』6号から一部改稿)

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