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青いピアス

 怒りに任せて家を飛び出すと、大抵は一つ目の信号あたりですでに正気に戻っている。
ただ引っ込みがつかぬから、なけなしの意地を張って、ブックオフやゲームセンターで「さすがにあいつらは心配するかしら?」と思う程度に時間を潰して帰るのが定石だろう。ドラッグストアの店内を無意味に歩き回りながら、宗太はほんの30分前の憤怒をいかに持続させ、あの理解の無い両親に後悔させるか、思案に暮れていた。怒りが持続すれば、腹も減らないだろうし、ゆえに金もむやみに使わずに済むからだ。しばらくノイローゼになった犬のように同じフロアを往復していたが、やがて一つの棚の、隅のほうで立ち止まった。
色とりどりのピアスと、ピアッサーが並んだ小さなコーナーだった。
 
宗太は、薄黒く色素沈着をおこした頬をしきりにゴシゴシと擦ると、今度はそのピアスの棚の前を往復し始めた。これはいいかもしれないぞ。これをバチっと開けて、夕食中に帰ってやるのはどうだろう。あいつらはきっと大いに慌てるぞ。宗太は両親の顔を思って、くしゅくしゅと小さく笑うと、一番針が細いものを目を凝らして探し出し、手を伸ばした。勢いをつけて掴むと、棚に額が当たった。ピアッサーは棚につながれていたのだ。彼は信じられないという顔をしてしばらく落ち着かなげにしていたが、やがて唇をきゅっと結ぶと、前のめりにレジまで歩いて行った。
 
 宗太は一生分の社交性を使った心地がして、疲労と共に、半ば誇らしい気持ちで歩いた。家に帰ってピアスを開けるのは、演出として陳腐な感じがしたので、人気のない公園に足を向けた。公園のトイレは早くも夜気に浸漬され、初夏にもかかわらずじわりと冷えていた。羽虫が入り込んだ蛍光灯が、弱々しく明滅している。汚れた鏡に、猫背で落ち着かなげな自分が写り、先ほどまでの興奮が多少削がれた。宗太は己を鼓舞するために、小さく両の拳を打ち合わせると、ピアッサーを開封した。
小さなミシンを思わせる本体に、槍のような銀の針が光っている。その下から、折りたたまれた説明書が滑り出てきた。一瞬で穴が空くので、痛みませんという文言の他に、簡単なイラストで使用方法が記されている。ほかにも小さな字で何かが書いてあったが、細かなことは余程大きな問題が起きてから考えればよいだろう。たかが、穴一つなのだから。宗太は一つ深呼吸をすると、ひび割れた右耳をつまみ、耳たぶにその小さなミシンを当てがった。冷たい針の先端が皮膚を掠り、思わず叫びだしそうになる。痛かったらどうしよう。血はどれくらい出るのだろう。心臓が喉元まで浮き上がってきたようで、息苦しい。歩き回って深呼吸をしているうちに、いよいよ空気が冷えてきた。ついに勇気を振り絞って、宗太は鏡を見据えて立ち止まり、イラストの通りに本体を握りしめる。カチャリと微かな音がして、針の先端が耳たぶに押し当てられる。ここで針と皮膚の具合を確認して、さらに強く握りしめる。
 ガチャン!という大きな衝撃とともに、予想以上の勢いで針が跳ねるように飛び出した。宗太はよろけて、ピアッサーを取り落としてしまった。慌てて鏡を見ると、左耳に安っぽいサファイア色の球がチカチカと光った。
ちゃんとピアスは開いたのだ。
 
 勇み足で公園を飛び出し、陰気な住宅街をずんずんと行く。我が家に到る石の階段を一段飛ばしで駆け、仄明るい玄関ポーチに、弾みをつけて降着した。慌ただしくドアを開けると、廊下も居間も、湿った闇に沈んでいる。
両親は出かけてしまったらしい。宗太はいかにも興ざめしたという表情を作り、肩を竦めて咳払いをすると、小さくなって二階の自室に引っ込んだ。

宗太の部屋は常人から見ると恐ろしく汚い。部屋の真ん中には、黴だらけの重たい布団が何年も畳まれないまま、ぐちゃりと蹲っている。その布団の周りは非常に合理的に整えられており、トイレ以外の用事は殆ど立ち上がることなく完結できた。もっと言うと、彼は時折トイレすら布団の上で済ませることがあった。空いたペットボトルに出すのだ。家にいる日は殆ど一日中腹ばいで肘をついて、グラタンコロッケサンドを片手にインターネットに興じ、ゲームに勤しむのだ。そして二十分に一回、ぬるいコーラを飲むときだけ起き上がる。もはやこの黴だらけの城は、彼の一部だった。

 布団に入ると鳥肌が立った。いつのまにか体が冷えてしまったらしい。いやおうなしに、つい最近まで働いていた食品工場の寒さが思い出された。自然、班長の嫌味な溜息や同僚の不愉快な眼差しや聞えよがしな陰口が一度に蘇り、宗太は丸い肩を余計小さく丸めた。なぜ、もう来るなと言われたのか、彼には分らなかった。どんなに記憶を掘り起こしても、彼に落ち度は見当たらず、班長と他の社員どもが結託していかさまを働いたとしか捉えようがなかった。メールで解雇を言い渡されてから一週間は毎日何十本もの抗議の電話をかけ、職場まで直談判しに通った。しかし必死の抵抗も虚しく、ついに彼はパトカーに押し込まれ、異常者扱いを受ける憂き目を見た。警察署まで迎えに来た母はおろおろと涙を流し、出張で家を空けていた父は、帰ってきて宗太を一目見るや、その左頬を強かに打った。不当な解雇に打ちひしがれる彼を、誰一人慰めてはくれなかった。
右耳のピアスは、そんな理不尽でくだらぬ会社や両親への、彼なりの強い決意表明だったと言えよう。

 徐々に痛み始めるピアスホールに、不安と誇らしさを感じながらスマートフォンを開き、内側カメラで自分の写真を撮っていると、珍しくメッセージの通知が鳴った。
内藤琢磨。
初めてアルバイトをしたコンビニの後輩からだった。宗太はなかなか人間関係に恵まれないたちだったが、内藤だけは妙に懐いてきて、何度か飯を奢ったこともある。聞き上手というか、懐に入り込むのが実に上手い男で、どんな話も興味深げに感心して見せる。宗太はこの後輩といると何から何まで喋ってしまうのだった。それでふと恐ろしくなって、余計に飯を食わせてみたり、掃除当番を代わってやったりもしたものだ。もう五年近く連絡が途絶えていたので、不思議ではあるものの、落ち込んでいた彼にとって内藤からのメッセージは三月の陽だまりのように優しく感じられた。宗太は湿っぽい布団を跳ね上げて立ち上がり、速足で部屋を一周すると、再び布団の上に正座した。メッセージを開くと、可愛らしい絵文字と共に、単純な時候の挨拶、そして日雇い労働の勧誘が書かれていた。
それが極めて怪しげな勧誘なのだ。指定された順路・交通手段に従って荷物を運搬する仕事だという。コンビニバイトよりもずっと給料は良いらしい。疑念を先読みしてか「断っても構いません、本音的には林先輩とシンプルにご飯行きたいです(笑)」と締めくくられていた。

 入った居酒屋は雨漏りしていた。ネットで評価が低いのも頷ける。また平日にしても客が少なく、後輩を見つけるのは容易かった。小汚いブリキのバケツが、カウンターに、座敷に、また通路に設置されて、一滴一滴と雨水を受けて虚ろに鳴っている。内藤はずいぶんと垢抜けて、一見落ち着いたように感じられたが、変わらず人懐こい笑顔を湛え、程よく感心しては宗太を喜ばせた。笑うと左の頬に、濃い笑窪ができる。それが何とも言えず愛らしい。宗太がしきりに右耳を弄っていると、さっそく「あれ、林先輩、ピアス空いてましたっけ?かっこいいっすね、似合います!色もいいですね。」と褒める。宗太は気分が良くなって、工場の悪口やら、父親を黙らせた話術やら、グロテスクな動画のリンクを探し当てたことなど、その齧歯類じみた歯が乾かんばかりに話し続けた。

 ラストオーダーに急かされて店を出ると、とうに雨は止んでいた。内藤は気だるげに伸びをすると、濡れた地面で煙草の火を消す。ジュ、という微かな音が、宗太を無性に後ろめたいような気分にさせた。話し過ぎた埋め合わせをするかのごとく本題に触れると、内藤は目を瞬かせて少し笑った。
そして「うーん、僕から勧誘しておいてあれなんですが、林先輩には合わないかもしれないんです。」と、少し難しい顔を作った。
「合わないって?ただ運搬するだけなんだろ?おれは地図も標識も正確に読めるが。」
「やあ、まあ、少しだけ危険というか、正直な話、あまり表には出せない仕事なんですよ。あ、もちろん運んだだけの人が捕まったりはしません。ただ、やっぱ林先輩には健全に生きてほしいなと感じたんす」

 一瞬、宗太の内に臆病と闘争心とが同時に湧いた。内藤が煙草に火を点け、深く吸い込む。
暫しの沈黙の後「捕まらねえなら別に良いぞ。俺、一応色々見慣れてるからな。その話、もう少し詳しく聞かせてくれ。」と宗太が低い声で言うと、内藤は黙って目を細めた。左頬が暗くへこむ。宗太の首筋に何か冷たいものが走った。
 
 宗太は毛羽立ったマスクをぺこぺこと上下させながら、霧雨の夜道を足早に歩いていた。時折何もないところで躓く。そのたびに当たりをじろりと見まわすと、舌打ちをしてみる。彼は今、悪の道を行く陶酔の只中にいる。左手に本革のボストンバッグを重そうに提げ、ポケットに突っ込んだ右手は、折りたたみ式のペティナイフを握りしめていた。目的地は県外、指定の順路は思った以上に複雑だった。しかし、隠された自転車を探したり、ある地点まで来たら服を着替えるなどの工作の数々は、彼の冒険心を大いに満足させた。早くも任務は終盤に差し掛かっていた。
長い坂を下り、二つ目の角を曲がった先に仲間が待っているという。今朝早く連絡してきた内藤は、初仕事の緊張を和らげるためか、いつになく饒舌だった。
「駐車場が見えてきたら、青いプリウスを探してください。見つけたら僕に電話をしてください。ああ、いきなりは近寄らないでくださいね!車の中に先輩たちがいます。普通に良い人たちっすよ、マジで面白いですし!」

 程なくして閑散とした駐車場が見え、その奥に鈍い青色の車が濡れていた。ライトが付いている。車の手前、ちょうど光の当たる場所に、白いビニールのようなものが敷かれている。足が震えた。宗太は興奮を抑えるために、しばらくその場を歩き回らねばならなかった。背を丸め、ラットのようにぐるりぐるりと数周すると、意を決して電話をかけた。

「お疲れ様っす。こっちですー!普通に車まで来て大丈夫です!」と耳元と前方から同時に明るい声が聞こえた。ほーっと息をつくと、大股で車に向かって歩いた。窓が開いているが、中にいる者はよく見えない。辺りは静寂に包まれ、宗太のせわしない呼吸音と不規則な足音だけが響いていた。目を凝らして歩いてゆく。ビニールを踏んだ。ふいに腹を軽く叩かれたような感覚があった。二歩歩く。次いで、夜空が回転した。宗太はとろみのある湯のようなものが、額を伝って鼻先に溜まるのを感じた。腹が熱いな、と感じた。
 
 車の中から小太りの中年男が現れた。いそいそと革のバッグを開けると声を弾ませる。「おお、551じゃん。面白すぎ。ありがとなあ。」
「やあしかし、死体は必要だったから助かるけど、こんな普通の人殺しちゃっていいの?動画なんかまで撮って…どうすんのそれ?」
後ろからもう一人、小太りがにじり出てきて渋面を作った。
内藤は車の乗り心地に辟易とした様子で背骨を鳴らしていたが、クスっと笑ってスマートフォンを開いた。
「大丈夫っすよ!この人、ご両親は生きていますが、きっと探しやしませんし。生きてたってほら、グロコンテンツを見てシコるくらいしか無いんだもん。林先輩だって、同じ趣味の皆さんの役に立てて本望っすよ。」
 
 
 とある海外サイトのギミックをいくつか突破すると、死にゆく人間の動画が見られるサイトに繋がる。そのサイトに「猫背のアジア人」という題のものがある。映像の冒頭、車のライトを受けた白いビニールシートが映し出され、ややあって、そこに奇妙な歩き方をする猫背の日本人が現れる。そして腹に一発、頭に一発と、無音のうちに銃弾が撃ち込まれ昏倒する。男の身体が手早く解体され、映像は終わる。
「猫背のアジア人」のアップロード後間もなく男のSNSが発見され、猟奇趣味なネットユーザーの話題をさらった。男の最後の投稿は、ゴミ屋敷の中で青いピアスを着けている、無表情な自撮りだった。そのため、この映像は「青いピアスのオタク」とも呼ばれている。


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