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鬱を知った人生。



   私は現在大学生である。大学生でありながら、私は鬱病であり、闘病の生活を送っている。
   正直な話、もう治る気はしない。心の中では治したいとも思っていないかもしれない。

   最初に病みというものを知ったのは中学生の時だった。
   私は学校で1番厳しい部活の部長を務めていた。朝は学校帰り始まる前に集合、HRが始まる前5分前まで部活、土日も毎週8時間。休みは第3日曜日の月に1回のみ。その日に練習試合が入れば休みはなし。酷い時は7ヶ月間休みは無しで、ぶっ通しで学校と家の行き来をしていた。
    平日は学校、朝と放課後、土日は部活。家と学校と体育館の往復だった。私は部長という重圧に耐えられず、毎日「もう辞めたい」と泣いては練習しての繰り返しだった。泣くほど辞めたいはずなのに、私の心にへばりつく責任感が、「私がいなかったらどうなるんだ」「私は部長だろう」と、私を練習へ行かせていた。
   ただ私が辞めたいと思っていた原因は私の内面の問題だけではなく、周りの環境も悪かった。私は電車通学だったので、時間的にどうしても間に合わない。駅から学校までの2kmの道のりを、雨の日も雪の日も全力疾走しなければならなかった。同級生は全然声を出さないしやる気がないし。後輩は私たちを嫌い好き勝手にするし、会話すらしようとしない。先生からは理不尽に厳しいことばかり言われ、私のメンタルはもうボロボロだった。

   当時は「病み」なんてものを知らなかったし、知ったとしても「私がなるわけない」と思っていたと思う。
   だけど、今思えばその時にはもう私は病んでいた。
   「部活に行くくらいなら死にたい」「もう無理、消えたい」「みんなも私が居ない方がいいんでしょ」
  と、ひたすら自分を卑下していた。コロナウイルスのせいで最後の大会は3年生が全員強制で出なければいけない試合で、私は強制的にコートに立った。
   最後の試合が終わり、その時の私は「悔しい」とか「寂しい」なんて気持ちはなくて、「ようやく終わった」だった。
   先生方や同級生など、周りから見たらとんだ薄情者だと思われるだろう。でも、私はそう思うくらい限界だった。
   引退してからは部活とはもちろんおさらばで、部活に充てていた時間は図書館に行って本を読んだり、ゲームしたり友達と遊びに行ったり、楽しく過ごしていた。

   私に2回目の病み期が来たのは高校1年生だった。
   部活を引退してからは受験生というものを強く実感させられ、進路のことで毒親とある母とそれはもう揉めたものだ。
   その時から母は私に一層強く当たるようになり、毒親は加速していた。
   高校に入学してわずか1ヶ月で病んだ。自傷行為ももちろんした。カッターで自分を切り、手当り次第に薬を飲み、食事をしては自ら手を突っ込み吐いた。自分で自分の首を締め、危険すぎる自ら失神する行為もした。

   鬱病というものは本当に怖いもので、自分が思っている以上に「死にたい」「消えたい」「辛い」という感情が強くなる。
   なにも考えられないくせに、無意識下では常に死ぬ方法を探している。自分で自分が分からなくなれば、ぽっくりと死んでしまいそうで。
   だけどその割には死ぬのは怖くて、死ぬのが怖い自分に嫌気がさすことだってあった。
   我儘なことに、「死にたいけど死にたくない」、これが1番正しい感情だと思う。

   私は今でも何かある度に死にたいと思うし消えたいとも思う。
   一度でも「死にたい」という感情を知ってしまったからには、常に選択肢の中に「死にたい」があって、「死にたい」が1番楽なのを知っているから死ぬのは怖くても「死にたい」という選択肢を私は手放せない。

    そもそも、一度食べた味は忘れないことと同じで、一度思った感情は消えない。
   私はこれからも「死にたい」と生きていくことを知っている。
   傍から見れば辛い選択肢かもしれないが、私にはこの生き方が1番いい気がする。