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Hey! Sɑy! JUMPは命の恩人-いじめと不登校の時期を振り返って-

こんにちは、くりなです😊いつもTwitterでJUMPへの愛や拗らせ?をつぶやいているしがないオタクです。

今回は、いつかまとめてみたいと思っていた私の数年ほど前の話をしたいと思います。

私は中学1年生の後半から有岡くんをきっかけにしてJUMPにハマり、以来高3の受験期を除けばずっとJUMPを応援しています。一方で実生活ではクラスでいじめに遭い、隠れ不登校や不登校を経験することになりました。一時は希死念慮を抱くほど追い詰められることになりましたが、その時に支えてくれたのが他でもないJUMPでした。

このような経験をしたJUMP担は恐らく私だけではなく、言ってしまえばそこまで珍しい話でもないかもしれません。しかし私はこの時のことではJUMPに言葉では表せないほど感謝しているので、それを文章で形にできればなと思っています。また私は日頃のツイートに自分の過去の話を混ぜることがあるので、FFさん(といっても数人程度ですが)などが私の過去をなんとなく把握することもできるかなと思いました。需要があるかはわかりませんw

私は長文常習犯のため、少しでも簡略化できるようざっくりと時系列順にまとめた後、印象に残っている出来事を振り返れれば…と思っていましたが普通に超長文になってしまいました笑笑通りすがりのJUMP担の方は、最初のJUMPにハマったきっかけ以外の中学生時代の話は見出しを見るだけにした方がいいかもしれないです😂

※ここにはいじめや希死念慮にまつわる描写がありますので、トラウマ等お持ちの方は自衛をお願いします。そうでなくてもメンタルの調子が下向きの日などは無理せず。せっかく読んでくださる貴重な方に元気を失って欲しくはないのでね。※


中学生時代

2017.7~2018.3 アイドルに縁のなかったFJCがJUMPにハマる

私は元々アイドルどころか流行りものや芸能関連のエンタメに全く縁のない子どもでした。
身近にアイドルが好きな人はおらず、TVもあまりつけない家庭だったので見るのはプリキュアなどの子ども向けのもののみ。それが徐々に自らゴールデン帯のドラマを見るようになり、たどり着いたのが「コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-THE THIRD SEASON」でした。

当時の主要キャストの中で、唯一名前も顔も一切知らなかったのが名取先生役の有岡さんで、ドラマを見ていくうちに役ごと興味をもつようになりまして。そこから有岡くんを見るために大型歌番組を見るようになりました。CDTVハロウィンスペシャルのMasqueradeとAino Arikaなんかを見たのを覚えています。

その後、八乙女さんがナインティナインの岡村隆史さんのANNに出演される際の宣伝として、ニッポン放送でWhite Loveがかかっているのを聞きます。当時はラジオも好きで、深夜帯の放送を録音して聴いていました。その中にたまたま入っていたこの曲に一気に心を奪われ無限リピートし、そこからはまあよくある新規オタクの流れのようにメンバーの名前を覚え、レギュラー番組を見たり聴いたりし、過去のCD、DVDを買ったり借りたりと沼落ちしていきました笑

2018.4 とある友人と同じクラスになるものの…

一方で実生活では中学生だった当時の私、2年に進学します。当時は毎年クラス替えがあったのですが、ここでとある友人と同じクラスになります、というかされました。彼女こそが後のいじめの主犯格になります。彼女とは元々小学校からの付き合いではあったのですが、やや難のある子でして。仲良くしたい子にベッタリとくっつき、それ以外の子を排除したがるというタイプの子でした。小学生時代はそれでもそれなりに仲良くしていたのですが、中学生になると徐々にその危なさを感じ取り少し距離を取るようになります。言ってもかなり大きめの学校だったし、クラスが一緒になることはあまりないかなーと思っていた、のですが。

彼女は前年度に登校をしぶりがちだったそうで、そのような子には通いやすくなるように一緒のクラスになりたい子を訊かれるというシステム?が学校にあったので、その際に彼女が私を指名したそうです。その後は最初こそ私にまとわりついていたものの、他につるめる子をクラス内に見つけた後に私をいじめだします。読んでいただけるとおわかりかと思いますが、だいぶ胸糞ですw

2018.5 本格的にいじめが始まる

この項と次の項にあたるいじめの時期の記憶は、正直あまりはっきりとしていません。ただこの時期のことは比較的覚えていることもあって、中にはクラスメートへの私の恋愛感情を利用されて暴露されたなんてこともありました(そこから恋愛へのトラウマを拗らせ現在に至ります)。
そういえば彼女は忠告するふりをして嫌味や悪口を言ってくることが多くありましたが、当然?JUMPにハマっていることもネタにされました。でも私はYour Seedの「好きなもの好きと言える勇気だけは手放したらダメだよ」の歌詞を信じていて、彼女よりJUMPの方が正しいに決まっている!と思っていたので、それだけは唯一ノーダメージでしたwww推しの力は偉大ですねwww

2018.6~12 いじめに耐えながら登校、JUMPで現実逃避

ここもいじめの記憶自体はあまりはっきりとはしません。ただ現実逃避の手段としてJUMP曲の歌詞をノートに書き写したり、ちょうどJUMP曲のピアノアレンジの楽譜を手に入れたので、休み時間にクラスの騒ぎ声に気を取られないために弾いたりしていました。

想像がつく方もいるかもしれませんが、ここまで一定の期間いじめが続き、その空気やいじめる側の子たちがクラスの中心になってしまうと、自ずとクラス全体の雰囲気も悪化します。クラスの男子が授業に来てくださった栄養士さんに暴言を吐いて学年中で問題になったりと、いじめてきていた彼女たち以外にもよくない変化が生じていました。私はその流れを止めることこそできませんでしたが、どうしてもクラスメートに同調して悪口を言う気にはなれませんでした。その結果、友だちこそいなかったわけではないものの、クラス内で完全に孤立することになりました。

体の不調もこの辺りから出始めます。私は心理の専門家ではないのでどこまで正解かはわかりませんが、人は精神的なダメージを一定の期間受け続けると、心を守るために感覚が麻痺し、辛さを感じにくくなると聞いたことがあります。但しその麻痺はあくまでも麻痺なので、ダメージを受けなくなったわけではありません。麻痺した状態にいてもいずれ限界が生じることがあります。私は恐らくそのパターンだったのだと思いますが、心で辛さを感じ取れなくなった結果体が悲鳴を上げるようになっていきました。

2018.12 私の中で何かが壊れる

2学期の終わり頃、決定打になる出来事が起きます。といっても出来事自体は小学校の時も関わりがあった男子のクラスメートに、授業中の円陣組みで避けられるといったようなことで、凄まじい出来事というよりは今まで積もりに積もったものが最後の一押しで崩壊してしまったような感じでした。

その日は金曜日だったので、日曜日の午後に母に学校に行きたくないと打ち明け、帰りたくなったら先生に渡して帰って来ていいという母が書いた手紙を持たされて登校するものの教室に入れず、自宅にとんぼ返りしました。
ここまで親の対応が一切出てきていないのを不審に思う方もいるかも知れませんが、当時は感覚の麻痺もあり、この出来事が起こるまでは誰よりも私自身が事の重大さに一切気がつけていなかったという要因があります。母はそれまであくまでも私を通して学校の様子を聞いていたため、重大だと感じていない「私」という名のいわばバイアスがかかった情報しか入手できていなかったということです。

ここでいじめを受けていた日々自体は終わりますが、大変なのはここからでした😨

2019.1~3 別室登校期間

通っていた学校が大きかったこともあるのかはわかりませんが、学校には別室登校用の部屋が存在しました。当時は自分のクラスに入れないが他のクラスなら行ける、クラス替えがされたらまた復帰したいと考えていたため、3学期中を別室登校で過ごすことになります。

後々また紹介しますが、正直学校の対応は良いものではなくかなり苦戦を強いられました。その始まりとして、別室への担任の訪問がありました。これ自体は絶対NGな対応というわけではないと思いますが、あのクラスにさっきまでいた人がやってくることが耐えらなかったのと、そもそもクラスメートや友だちからの直談判があったにも関わらず、半年以上いじめを放置していた担任を信用できなかったので、親を通して訪問を辞めてもらいました。

ここでは勉強の壁に直面していました。授業を受けられないと学校での勉強になかなか取り組めず、といっても他の手段があまりありませんでした。iPadの通信教育を学校でやろうとしましたが、学校にWi-Fiがないに等しかったので、ポケットWi-Fiの持参の許可をもらったりもしました。今思えば当時の精神状態で勉強を無理にする必要はなかったのですが、当時は高校受験のこともあり勉強が遅れるのは死活問題でした。

2019.4~ クラス替えを機に教室復帰を試みるも…

進級し3年生になったタイミングで、教室登校への復帰をはかります。しかしここで大きな問題が生じました。
元々この件を機に、両親と学校で何度か話し合いの場が設けられていました。そこで進級の際のクラス替えで、いじめの主犯格だった彼女とはクラスを離してほしい、フロアも分けてほしいと伝えていました。ところが教室復帰の初日、健康診断の際に彼女が隣のクラスであることに気がつきました。

このことがかなり私の身にこたえ、一気に先生への不信感を抱いてしまいました。別室登校時代も鉢合わせないように気を配り、見かけたものなら「殺される!」と感じていたので(当然殺される訳はないのですが、理屈の通らない条件反射的な思考でした)、当然学校生活などままなりません。結果的に登校復帰を目指していたものの、通うのが難しくなっていきました。

2019.7~9 一番しんどい時期、希死念慮と闘う

この辺りが私の記憶では一番辛かったと思います。今から振り返れば早く登校を辞めて心を休めるべきだったのですが、前項からのこの時期はなんとかして登校しようと苦闘していました。
理由は様々あるのですが、勉強を辞めたくはなかったこと、出席数が限られると高校受験に影響を及ぼすと日頃から学校で言われていたこと、クラスは変わったのだから通わなければという気持ちや学校からのプレッシャーなどでした。ただ授業にはあまり出られなかったり、出ていたものもほとんど身になっていませんでした。塾にも少し通いましたが、やはり身にはなりませんでした。場所自体はいいところだったので、私の精神状態の問題に尽きると思います。

具体的にいつからだったかは覚えていませんが、この頃から希死念慮との闘いが始まりました。私の闘い方はずばり、Hey! Sɑy! JUMPに頼ることでした。当時はこの先何十年も生きなければいけないと思うと絶望しかなかったのですが、数日、数週間の単位で何かしらJUMPに関わる楽しみを見つけ、そこまでは頑張る、その後はどうなってもいいから、と考えるのを繰り返していました。私がJUMPを命の恩人と感じ、感謝してもしきれないと思っている一番の要因はここにあります。この時に支えてもらった具体的なJUMPの活動については後述します。

この頃は同時に高校受験の志望校を探さなければなりませんでした。この状況から確実に抜け出すためにも高校選びはとても重要だと考えていたので、母と一緒に説明会を回っていました。しかし、この時の私は通っていた学校に限らず、説明会に訪れた学校でも体調が悪くなるようになっていました。夏休みから秋にかけて回った学校は、大体母にぐったりとよりかかりながら顔色が悪いまま説明を受けていました。

2019.10 登校を辞めることを決意

その後も学校で役割を引き受けるなどして何とか通い続けようとしていましたが、今度は徐々に学校にいると息苦しさを感じるようになりました。
ここでいう息苦しさとは精神的な比喩ではなく、本当に息ができないように感じるものでした。当然精神的ストレスが要因なので気のせいだと言われればそれまでなのですが、このせいで秋には学校には1時間ほどしかいられなくなりました。当然授業は受けられませんし、進路の説明会なども途中で飛び出していたと思います。

高校受験が成り立つような勉強もできていないし、これ以上は無理だと感じ10月の頭を最後に毎日登校を辞めることになります。この時期は親子で高校浪人かと思っていましたが、ひょんなことから通信制高校の合同説明会の存在を知り、参加することにしました。
まず通信制高校が何かもわからなかった私たち親子でしたが、通信制の仕組みの説明会やスタッフの方の協力のおかげで、見学する高校を絞ることができました。この時は個別ブースにいる高校の先生と目も合わせられなかったのですが、後に進学する学校の先生は私に親身に声をかけてくれて、顔を上げることができたのを思い出します。

ここからかなり急激に状況が変わっていきました。

2019.12 通信制高校に進学決定

その後いくつかキャンパスに見学に行った通信制高校の中から、ぐったりしていた他の学校での様子からは考えられないほどのびのびとオープンキャンパスを楽しむことができた学校を受験し、無事合格しました。最終的に公立の全日制、私立の全日制、公立の3部制、私立の通信制と10校ほどの高校を回ったと思います。
そこからは比較的ゆっくり過ごし、高校で入学前に参加できるプログラムに参加したりもしました。

高校生時代

高校はちょうどコロナ禍と完全に被り、正直入学前に思い描いていた高校生活とは違う形になったものも多くありました。しかし、中学校で不信感を抱いていた先生方の対応からすると驚くほど高校の先生は柔軟で、個性豊かで、いい意味で先生っぽくなく親しみやすい先生方にとてもお世話になりました😭

コロナ禍で友だちと仲良くなるには時間もかかりましたし、精神的に不安定で浮き沈みはありましたが、通信制という自由の効く場所だからこそ自分のペースで学ぶことができました。精神面からしんどいことも多かったはずなのに、高校がその要因になることはなかったからか、今振り返ると楽しかった思い出ばかり蘇ります。

JUMPの推し活も受験期以外は全力で楽しみ、無事高2の秋にライブの初参戦も果たしました。高校生活もJUMPに彩ってもらいながら、無事3年間で高校を卒業しました。

ウェンディ&ピーター・パンの観劇に行った時

大学生時代(現在)

現在は高校の先生に紹介してもらった大学で、高校で参加したプログラムをきっかけに興味を持った分野の学びを満喫しています。コロナ禍だった高校生の時よりたくさんの友だちを作ることができ(友だちはただ多ければいいと言うわけではありませんが、たくさんの人と関わるのが好きなので念願の環境でした)、現在はいじめや不登校時代の影響を日常で感じることがあまりなくなってきました。

JUMPも大学入学後から徐々にまた応援を再開し、PULL UP魂に行って以来モチベが爆上がりして、現在は中学生以来の熱量になってます笑

タワレコ渋谷の展示を見に行った時

JUMPが命を救ってくれた思い出

ここからは先程前述した希死念慮と闘っていた時期のJUMPとの(一方的な)思い出をいくつか書き記したいと思います✍🏻

①ドラマ「セミオトコ」

このドラマは2019年の7月〜9月クールで放送されており、正しく私の1番大変だった時期と一致していました。このドラマの続きを見たいから、という理由で生きていた時期も当然ありましたが、中でも7話のセミオのセリフに号泣した覚えがあります。

人間は自分の力で生きることを選んでる。毎日、毎日、生きることを選んでる。素晴らしいことです。

公式の情報を見つけられなかったので、多少違うところがあるかも知れません…💦

おかゆさんが、セミオのいない世界で生きたくないと吐露するシーンでセミオがおかゆさんにかける言葉。このシーンに限らずおかゆさんが自分と重なって見えていた私には、セミオのセリフがあまりにもまっすぐ突き刺さり、涙が止まりませんでした。

(↑調べていたら当時の公式の実況ツイを見つけました笑)

学校と家以外の居場所(伊野尾くんが声優を担当しているu&iではサードプレイスと紹介されていましたね)が見つからず(当時はなかなか良い場所がありませんでした)、第3者の頼れる人もいない中、味方は家族のみの孤独な闘いでした。そのため、当時の私はセミオくんのセリフのように、生きることの大変さ、息苦しさを誰かに認めてほしかったのかなと思います。今でも希死念慮と闘っていた時期の思い出として、1番印象に残っているドラマです。

(主題歌のファンファーレ!を流すと、当時を思い出して胸が痛くなると母は言っています笑)

②八乙女さんのさんま御殿出演

このさんま御殿の前も、本当に生きているのが辛くなっていました。どうにか耐え忍ぶために、「八乙女くんが出演するさんま御殿の放送までは生きる」と決めてそこを目標にして頑張っていました。
八乙女くんはこの記事にもある数の数え方で、その回の踊る!ヒット賞を獲得しました。どうしても「しち、はち」と数えられない八乙女くんの姿が面白く、放送を笑って見ることができました。当時は笑って何かを楽しめることがなかなかなかったので(話を逸らすと、SENSE or LOVE魂のメイキングに出てくる、パン切りナイフとまな板をバイオリンに見立てる有岡くんでしか笑えない、なんて時期もありました笑)放送が終わってから「生きててよかったな、もうちょっと頑張ろうかな」と思えました。

【追記】上記の有岡くんの映像が公式TikTokに投稿されました!!こちらです💁🏻‍♀️
https://www.tiktok.com/@heysayjump_storm/video/7359539338587245840?_t=8leo28n40ZU&_r=1

③ゆとじゃん

何時頃の回だったかは忘れてしまったのですが、中学生時代にゆとじゃんでお便りを読んでもらったことが2回ほどありました。内容が子どもっぽかったりして若干黒歴史ではあるのですが笑、そのうちの中3の秋頃に送った2回目のお便りで、あまり学校に行けていないと書きました。
どんなニュアンスだったかはっきりとは思い出せませんが、裕翔くんはさらっと「大丈夫かな〜」と言ってくれました。裕翔くんにとっては些細な一言だったかもしれませんが、この一言にすごく支えられたなと思います。

この話はこの間もTwitterに書きました。

振り返って

ここまでフルで読んだ方いるのかな?と思うくらいの大長文になってしまいました笑、本当はもう少しJUMPにスポットを当てるつもりが、完全に個人の回顧録になってしまいました笑笑
具体的な振り返りは時間を置いてから書きたいので、ひとまずJUMPに改めてありがとうの気持ちを伝えたいと思います。また、精神面ではほぼ元気になったので、これからどんどんJUMPのオタ活を楽しんでいきたいと思います!FFの子も、これから仲良くする子も、こんな私でよければ是非仲良くしてください❣️

くりな

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