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お正月

 2021.2.23。起きた瞬間に昔のあるお正月のことを思い出し、一瞬で憂鬱になってこのnoteの存在を思い出した。

 前にも書いたかも。まだ結婚して最初のお正月だった。年末近い時期に挙式をした私たちは、その名残みたいなものを引きずりながら、なんとなくせわしなく、仲良くやっていたと思う。何より土日が仕事メインの私に、平日は朝しか顔を見ない生活、最初からお互いの部屋で過ごす毎日だったので、まあそんなものかなと思っていたかも。私はイベントが好きなので、それでもお正月はちょっと気合を入れようと思っていた。おせちを作って、着物を着て。遠出するとか旅行するではないけど、お正月らしいお正月をのんびり楽しめたら、と。

 大晦日、初めて先方の家族と過ごすことになった。これまで会えなかった、闘病中の家族、というのに会えることにもなり、そうしたら意外と話もはずんで、「初詣いこうよ!」ということになった。最初は盛り上がっていたけれど、夜中で体調を崩しても、ということで、話はなし崩しになった。家族は精神的に不安定な時期を超えて、寛解期に入った所だったと思う。なので夫であった人に、じゃあ、私達だけで行けばいいんじゃない? と話しかけたのだ。そうだった気がする。でも、「家族が行かないなら行かない」ということになって、終電で家に帰ることになった。

 面白くない。夜中の初詣大好きなのに。というかなんで行かないの? 行こうよ! 楽しいよ! さっきまでいくつもりだったなら、二人で行っても同じじゃない? でも貝のように押し黙るモードに相手が入ってしまったので、だんだん、言い募っている自分がとてもわがままで、無作法なばかもののように思えてきた。仕方ないか。帰るまで無言で、帰ったら相手はいつの間にか眠ってしまっていた。これもいつもどおり。

 まあ、お正月の過ごし方は人それぞれだし、また行けばいいしね。そう思って、気を明るくして、さて、と朝話しかけようとした。ら、相手は出かけるという。「どこに?」「家族のところ。」「昨日行ったじゃない?」「いや、(闘病中の)家族が会いたいって言うから。」すでに準備ももう済ませていたようで、今回ばかりは相当食い下がった気がする。どうしても今日じゃなきゃいけないの? 初めてのお正月だし、明日からはまたあなたの親戚のところに行くでしょ? たしかこのお正月で、ふたりとも休みの日は元旦しかない、というのもわたしの勢いに拍車をかけた。ただ返ってきたのは、家族が会いたいと言ったら絶対だということ、私には同じ経験をしていないから、わからないのだということ。相手とその家族とは、十数年ほとんど縁が切れたような状態で、最近和解するようになったのだという。話ができることが貴重であるということ、いつ死んでもおかしくないと自分は覚悟している、とも話していた。相手から家族の話を聞いたことがなかったので、その口調は鮮明に覚えている。

 その日はどうやって過ごしたのかなあ。今日みたいに天気がいい日だったと思う。

 その後、相手は週末ごとに家族の元を訪れるようになった。だんだん、私は飲み込むようになった。彼の中では家族のことが絶対。優先順位を争いたくて一緒にいるわけではないけれど、緊急性が高いのが向こうなのだから、私は譲るしかない。やがて私の仕事が一段落した後は、私から進んで週末ごとの家族訪問に付き合うようになった。闘病中の家族がまず、元気になっていくことを支えにするようにもなった。そうしたら、いつかはこちらの夫婦と子としての「かぞくのじかん」がもてるようになるかもしれないから。相手の中の家族像は、実家の家族の中に付属品として妻と子がくっついてきただけで、自分が主体として家族を築くつもりはないのだ、ということがわかるようになったのは、それから数年後の話。

 今、私は仕事をして、育児と家事をして、やりたいことを抱えている。いつも時間は圧倒的に足りないし、これまでの年月を思うことがある。あのときあげてしまった私の時間、返ってこないとはわかっている。彼のご家族に関しては、私ができることはもう全部したから、悔いはない。ただもしあの週末たち、数年分の週末、ご実家との往復の時間がまるまるなかったら? 夫婦で映画を見に行ったり、おいしいものを食べたり、ただただおうちでくつろいだ記憶を頑張って思い出そうとするんだけど、いつも頭の中に霧がかかったみたいになる。相手と離れてみて、昔の恋人と過ごした時間を思い出したり、周囲の夫婦や家族たちを見ていて、違和感すら覚えることがある。そういえば、私も、そんなふうにしていたことがあったかも、と。まるで普通のカップルみたいに。

 今なら言える。私ももう少し自分のために時間を使っても良かった。一人で本を読んでいたってよかった。家族と同じように、こちらの都合や時間も大切にしてほしい、と言っても良かった。断れないならいっそ相手の懐に入ろう、という戦略は、相手の家族ぐるみの沼のような時間にどんどん取り込まれていき、戻るまでにとても長い年月がかかった。

 そんなふうになるまで、「わたしをみて」といえなかった自分のことを思う。一度大きく体調を崩してからというもの、今はその頃ほどいろいろなことが器用にできない。先のことがわかってきたからこそ、失った時間のこと、願いのことを弔うために、今日思い出したんだ、と。そう思うことにする。

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