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2020.5.10(日、母の日)軽く1ヶ月過ぎちゃった

嵐のところで終わった日記を読んでくれている人がいて、「げんき?」とInstagramのメールにメッセージしてくれた。うれしい。ありがとう。忘れてた! 忘れちゃいないけど。ほぼ。ただいま!

前にはてなダイアリーで書いてたときもそうだったんだけど、落ち込んでしまって現実と非現実の境目がわからなくなる手前、一番日記が書きたくなる。アナログの日記ももちろんつけていて(小学校5年ぐらいからだから、断続的にもうかなりの年数)、ここ最近は10年日記に細かい字でびっしり書くのと、自分の気持ちや考えをまとめるためのノートと、まとめて書きたいときの分厚い日記帳、それに修論のまとめノートに、調べている現実的なことを書く(たとえば働きたい場所のピックアップとか)ノート、冷静に書くと多いな。もちろん自分専用。ただキーボードで書いて、電子でそれを読む、というのは気持ちがかなり違う。誰かに話したいのと、自分に言いたいのとの中間、でもないな、この世にブラックホールのような、感情を投げ込む闇のような場所(集合的無意識ともいう)があってそこに何かを入れる! みたいな感じ? 成仏せよ! この気持ち! みたいな。

外を歩くとき、ことさらに誰かに見せようと思って私達はおしゃれするわけじゃないけれど、でも見られることもあるし、こっちだって見てることもあれば、誰にも出くわさず見られてもいないときもある。でも服は着るし化粧はする。それと同じ感覚なんだと思う。ただこの感覚なのはあくまでアマチュアで読まれるために書いてるわけじゃないから、っていうのが大きい。誰かに何かを訴えかけたいときの文体じゃない、というか。デートしようと思うときはそれなりにおしゃれするでしょ。でも裸で出るわけじゃないんだよな。

前回のすごく落ち込んでいた頃から、毎日の規則正しい時間割を設けられるぐらいに気持ちは落ち着いて、もっぱら、今は近所のコーヒー屋さんから豆をもらってきて挽いて飲む、とか、豆を植えてみる、とか、のびのびになっていたセーター洗いをし、、、たつもりでお風呂の水につけっぱなしだった。忘れてた。特別な高揚感も、生活の喜びへの実感もそこまで高くなく、むしろ考え事に集中している感じ。2週間ぐらい前までは結構近所の人気のない野原や森に出向いてたんだけど、GWなんとなく家から出ないでいるうちい、軒並み閉鎖になって、一回でなくなるとなぜ出るのかよくわからない気持ちになってくる。でも外にいくと理屈なしに元気になるし、昨日は近所でこれまた好きなオーガニック系のケーキを買ってなにもない日のお祝いをした。前祝い。今日課題を出しきれたから、その予祝になった。誰かが作ってくれたものの恋しさいとしさを経ると、自分の味がなんか許せてくる。

これまた近所で買ったミニバラをベランダに置いたら、毎日うそみたいに咲く。




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