2020.8.27(木)

楽しい夢を見て起きたのに、また落ち込んでしまった。

自分が誰なのか、どうして生きているのかよくわからない。大学時代の友だちに連絡をしてみたいと思う。話すことがなくなって10年以上になる友だち。好きだったな。ばらばらになってしまった気がする。

面白い人たちがまわりにいて、いつでも連絡ができる、というのが支えだった。いろんな話、いろんな生き方をしている人がいて、クリエイターズ・サークルみたいなもののなかに生きていると思っていた。でも気がついたらそこに至る道は切り刻まれているし(自分でやったのかもしれないけど)、どうやったらみんなともう会えるのかわからない、と思う。個別の人に連絡をしたらたぶん会ってくれるとは思うんだけど。当然。でもその手が動かなくて1年以上経つ。

若いときの自分を思って悲しくなる。もう少し楽に生きさせてあげたかったとも思う。


もしいまわたしが死ぬことで、わたしがいま怒っている相手が償ってくれるなら、そうしたいとすら思う。私から奪った時間をそっくりそのまま返してくれるなら。一回死んで最初からやり直しで、別バージョンの安心できる人生を、その人達の死によって成立させてくれるなら。小さいときは、死んだらわかってくれるかな?と思っていた。大人になって物がよく見えるようになった。死んでもわたしの死を感動ストーリーに仕上げて勝手に消費するだろうこと、気持ちが伝わることは一切ないだろうこと。そしてわたしのした<よいこと>は彼女らの善行に、<わるいこと>はわたしの責任に帰されるだけだろうことに。残酷だけどそういうものなのだ、わかりあえないというのはそういうことなのだ。そこまでわかってしまって、まだ生きるのがしんどいときもある。わたしがとりもどしたいのは、そのときそのじかん、そのときのわたしのエネルギーや若さ、そのひとたちまるごとであって、わたしひとりがたとえ若返っても意味がない。そうして、これを書けるぐらい元気だし、絶対に死なないので読んだ方は安心してください。(本当に危ないのは何も言わなく静かになった時だと思うよ。周りで自殺した子何人かも、そうだったから。)

後もう少し経ったら朝ごはんの準備とお弁当を詰めて、仕事着を持って出かけます。



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