見出し画像

パラダイス

    あまりにも救いのない物語。二時間という比較的短い上演時間だったが、ずっと胸が圧迫されるような重苦しさで、観終わってどっと疲れが襲ってきた。
 主人公梶浩一(丸山隆平)は特殊詐欺グループのリーダーで、忠実な相棒真鍋清(毎熊克哉)ともに、生きていること自体を「罰」だと感じるような「もう終わってる」若者たちを一人前の詐欺仲間に仕立てるべく、その「教育」を任されている。浩一の上役のヤクザ辺見豪(八嶋智人)とそのボディガード青木幸司(水澤紳吾)は浩一の動向を執拗に探り監視している。浩一の実家では父(西岡徳馬)と母(梅沢昌代)と姉(坂井美紀)がうんざりする日常をただたんたんと生きている。浩一は、疎遠になっていた実家と久しぶりに行き来するようになり、しだいに辺見との関係には亀裂が走るようになっていた。舞台空間を上下二つに分けて、詐欺グループの研修現場、雑居ビルの屋上、浩一の実家・・・と交互に小刻みに場面が展開する。
 身体を直撃するような「重苦しさ」や「疲れ」は、登場人物たちがやりとりする言葉=台詞に、人と人のコミュニケーションの根源的な不毛さ――不可能性?いやそうではなく、そもそもコミュニケーションそれ自体を望みもしない、端的な絶望のようなもの――を感じてしまったからかもしれない。とくに「小川家」でのぐだぐだと繰り返される終わりのない「日常会話」の異様さには、だんだん心が凍っていくような怖さを感じた。
 終盤のクライマックス、ビルの屋上シーンで、何の感情もなくナイフを手にして辺見を刺す浩一、浩一のために辺見への忠誠を示そうと指を切り落とし瀕死の状態で横たわる真鍋、手製の銃で一人また一人と無造作に撃っていく青木、最後に浩一に銃口を向けたところで、不意に暗転する。ここで終幕か、と思ったとき、パッと明るくなり浩一の家族の日常が浮かび上がる。このラストシーンには心底ぞっとした。社会の闇は、詐欺グループでもヤクザ組織でもなく、まさに「ここに」=家族の日常にこそある、ということを思い知らされたからだ。ここから脱出せざるをえなかった浩一の気持ちが痛いほど伝わってくる。しかし出ていったとしてもこの社会のどこにも居場所などなく、実家との「縁」を完全に断ち切ることもできず、ただ時をやりすごすしかなかったのだ。銃口を向けられたときの浩一の心に何があったのか、推し量ることはできない。その表情には「無」しか宿っていなかったからだ。
 赤堀雅秋は、ビルの屋上に偶然居合わせた研修生の望月道子(小野花梨)を一人「逃がす」シーンに、「救い」を表現したという。しかしそこに「救い」を見ることができるかどうかは、何よりも観る側が置かれた社会の状況によるのではないか。日本社会の今のこの腐りきった政治「状況」と国家破綻寸前の悲惨な経済「状況」に身を置いている私たちにとって、ここに「救い」をみることはきわめて難しい。たとえ生き延びたとしても、若い人ほど抵抗の意志も変革の気概もなく、ただ流されてこの吹き溜まりのような社会の片隅にまた戻ってくるしかない、そう思うからだ。
 ただ私は、この舞台を覆う「重苦しさ」と「疲れ」の只中でも、真鍋の浩一への、何とははっきりとはわからないが、でも繋がっていたいという「思い」と、辺見の浩一への、繋ぎ止めておきたいという執着をどう表現していいかわからず暴走する「思い」のなかに、確かな心の動き=「恋情」を感じ、そこに唯一「救い」をみたような気がした。しかしその「思い」を――知ってか知らずか――冷たく無表情にスルーする浩一の最期にはやはり、パラダイスという名の絶望を色濃く感じざるをえなかった。しかしそれでもなお、人の心の動きにみいだした「救い」こそ、絶望のなかの一筋の光明であり、そこに私たちはバラダイスをみるべきなのか・・・とまだ心は揺れ動き落ち着かない。


*****************************************************※丸山隆平という役者は舞台作品に恵まれている、と思う。出演作には良作が多い。そのなかでも印象的だった二つの過去作について、以下に当時のメモを載せておきたい。
 
「ギルバート・グレープ」(G2脚本・演出/東京グローブ座2011.2.3)
 映像の印象が強いこの作品をどうやって舞台にするのかといういらぬ心配をしていたがまったくの杞憂で、随所に舞台ならではの演出が光る傑作だった。やはり映画と演劇の表現方法はまったく違うということを実感させられた。原作の小説に忠実なストーリー展開で、主人公の心の独白がすべてスクリーンに映し出されるなど、言葉=台詞の饒舌さが際立っていて、その言葉の洪水がとても心地よかった。丸山は膨大な台詞量を懸命にこなし、時に閉塞感に押し潰されそうになりながらも家族を支え思いやる優しい青年を瑞々しく演じていた。母親の「大きな体」をシルエットで舞台いっぱいに映し出し、ろうそくの灯火だけで終盤の火事のシーンを成立させる、など大げさな舞台装置はなくても、光と影を巧みに使った象徴的な表現が印象的で、出演者たち自身が舞台上のものを動かし暗転なしで舞台転換を行なう手法も斬新だった。

「マクベス」(鈴木裕美演出/東京グローブ座2016.7.6)
 グローブ座で「マクベス」を観た。これが本当に素晴らしくて、いまさらだが、やっぱりシェイクスピアは天才だ!と思った。「マクベス」は、結局「予言の自己成就の物語」なのだが、それは魔女の予言を聞いてしまうマクベスだけが特別なわけではなく、すべての人間の「生」を貫く普遍的な問題である。戯曲を読み込んでいったからか、比喩を散りばめた珠玉のような美しい台詞の数々に圧倒され、没後四百年を経てなおこれだけの言葉によって人々を魅了し、深くものごとを考えさせるシェイクスピアの芝居の奥深さに、改めて感嘆した。
 鈴木裕美による演出も秀逸、魔女を一流の男性ダンサー三人に変えて、さまざまな役を振って常時舞台に立たせるというアイデアは、途切れなくつづく人生のダイナミズムを感じさせ、二時間半休憩なしの息も尽かせぬ疾走感溢れる舞台進行に大きく寄与していた。またマクベスとマクベス夫人を等身大の若夫婦とした人物造形、これが本当によかった。権力の亡者といった従来のステレオタイプの描き方を払拭し、運命に苦悩する人間の弱さ、愚かさがきちっと描かれていた。
 丸山が繊細に演じた「若く美しく儚い」マクベスには、一つの人生を生き切り走り抜けた爽快感が溢れていて、悲しさよりも「切なさ」をより感じさせた。国王暗殺という大それた事をして「眠り」を奪われてしまったマクベスが、さらし首になって戻ってきたとき、みんながそっと「おやすみ」と声をかける、そして静かに目を閉じる――なぜかほっとするラストシーンだった。原作に忠実に言葉を紡いできたこの舞台が最後に用意したオリジナルのシーンに、「やっと眠れるね」と声をかけたいやさしい気持ちが心の奥底から湧いてきた。

                                                 amanatsu20221021



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?