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丁寧語っていいなと実感してきた今日この頃

『アメリカン・ユートピア』は最高of最高な映画体験で、デイヴィッド・バーン率いるブロードウェイでの斬新なステージが、スパイク・リー監督によってライブの興奮そのままに真空保存されている。音楽とか共演アーティストたちとか舞台美術とかメッセージ性とかそういったメインの素晴らしさはもちろんなんだけど措いといて、ちょっといいな、珍しいなと印象に残ったのが、デイヴィッド・バーンのMCが字幕で丁寧語になっていることだ。知的で飄々とユーモア漂う雰囲気にすごく合っている。

ところで、ちょっと前の朝日新聞で、役割語をテーマにした「女言葉だわ、男言葉だぜ」という記事が出ていて、興味深く読んだ。文芸翻訳者による小説内セリフでは話者の区別をつけるための必要悪という意見、言語学者による「女らしさ」と結び付けられた女言葉の起源、アメリカ言語学者による英語でも男女の言葉遣いのステレオタイプが議論になっているという話。
これ、私も常々気になっている問題で、小説や映画字幕(TVや吹き替えものはほぼ観ない…)にあまりに不自然な女言葉や男言葉などの役割語が使われていると、気が散って感情移入しにくくなることもよくある。

別に役割語がすべて嫌いというわけではない。年代や地方によっては実際に使っている人もいるし、バラエティに富んだ喋り方はフィクションを彩るし、真似して遊ぶのは楽しい。姪っ子たちが保育園児のころ、ディズニープリンセスに激ハマりしていて、ごっこ遊びする際は「パーティに行きたいわ」「いいわよ」などと言っていた。ふだんはバリバリの方言なのに。こんな小さいときから役割語の使い分けは身につくんだな〜と感心したものだ。

違和感を強く感じるのは、現代が舞台で、若い登場人物たちのリアルな人間関係や感情を描いている作品のときだ。小説ではある程度、男女の喋り方に区別をつける必要があるというのはまだわかる。英語の原文には「she said.」「he said.」といちいち書かれているけど、そのまま日本語にできないしね。でも習い性となって必要以上に使っちゃってない?と感じることも多い。

日本の作家が書いた現代小説でも、男女のセリフがそれぞれ役割語になってるものはけっこうある。しかし、たとえば「若者のリアルな姿を活写している」ということになっている作品で、実際に近い言葉遣いじゃなかったら、どの程度、現実をよく観察して写しとろうとしてるものかね〜と疑問符がついてしまう。その点、(一部の)マンガのほうが会話表現のリアルさで先を行っている気がする。

話者の区別をつけるためという理由なら、映画やドラマなどではことさらにやらなくてもいいのでは、とも思う。マンガと同じく、視覚情報で話者のイメージを提示しているのだから。でもつい最近観た映画でも、屈強な女性アスリートが果敢なチャレンジを成し遂げたときに「やったわ」、女児が母親に話すときに「いいわよ」という字幕がついていて、それぞれ「やった」「いいよ」で充分だろう、と思った。読む文字も減らせるし。

ではどんなふうな喋り方を当てはめていけば違和感がなくなるんだろうと全体的に考えていくと、これが案外難しい。現実の社会で自分を取り巻く喋り方は、仕事関係だったら丁寧語、家族関係だったら方言、友達関係だったら少し乱暴な言葉遣いで最近はネット語に侵食されてきてるとこもある…。どれが自然といえるのか、自分でもよくわからない。

ずっと前に雑誌の仕事をしていたとき、家庭のインテリアについて女性にインタビューするページが多かったのだが、同じような内容でも日本人だったら「ですます」、欧米人だったら「だわのよ」口調にされていることがよくあって、私の担当する範囲内では可能な限り「ですます」に揃えていた。ほかの条件が似通っているため、口調の違いだけが目立っていて、「日本人は礼儀正しい、欧米人はフレンドリー」みたいなイメージを再生産してしまうのは違うんじゃないか?と思ったのだ。

現実の生活では丁寧語や方言の使用割合がかなりを占めているのだが、翻訳ものにはそのまま当てはめられないから、語尾が落ち着かなくて、それでお定まりの女言葉、男言葉が使われがちになってしまうという面もあるのかな。慣れの問題という気もするけど。アメリカ映画とかでよくあるシチュエーションだが、パワフルで強権的な指導者が出てきて、男性の場合には字幕は断定的な口調、女性の場合には字幕は丁寧語か女言葉…となるのは、わからなくもないけど、原語にはないキャラクターづけをしちゃってるよね。

ところで、今年の夏、評判に押されてなんとなく『大豆田とわ子と三人の元夫』を観たらめちゃくちゃハマり、続けて同じ脚本家・主演の『カルテット』もAmazonプライムビデオで観たのだ。これまた面白かった!

ストーリーが凝ってるとか、俳優たちがみんな良すぎとか、軽井沢の別荘暮らしがうらやましいとか、語り始めたらきりがないが、いっこ印象に残ったのは、主演の男女4人がずっと丁寧語で会話をしていたことだ。松たか子と松田龍平は丁寧語で話しそうなキャラだけど、ダメ人間寄りの満島ひかりと高橋一生も。この二人、従来だったらキャラづけのために女言葉と男言葉にされてそうじゃないか? なにより親密で面白い会話を丁寧語だけでできるんだ〜、というのが自分にとっては大きな発見だった。

とくに20代のころまで私は敬語が苦手で(そもそも上下関係が苦手)、友達づきあいでは丁寧語を使うのも使われるのもいやだった。丁寧語で話してるうちは腹を割れないという思い込みがあった。そのうち、仕事で出会った人たち、いろんな年齢の人たちとの友達づきあいを重ねていくうちに、そんなことないとわかるのだが。しかし今でも、親しいはずの人がやけに丁寧語を使ってくるとき、距離をおこうとしてるのかな…と感じがちである(たぶん被害妄想)。

仕事関係で会う人とは丁寧語が基本だから、相手によって変えなくていいのはある意味ラクだ。年齢が上か下かに関係なく丁寧語を使っておけば、フラットに近い感覚で話せるし。大人の友達づきあいでは、基本的に丁寧語でいくのがいいかもしれない。『カルテット』を思い出せば、丁寧語でも個性は出るし、うちとけた会話ができるはず。とくに年下の人に馴れ馴れしい口をきくと、今やハラスメントになるおそれもあるし。そうだ、これからは丁寧語で話すことにしよう!

翻訳でも、もっと丁寧語を使うのがいいときもあるんじゃないかなぁ。フィクションでのセリフはともかくとして、現実に生きている人物の発言やインタビューなどでは、一面的な属性から役割語を当てはめるのは微妙な時代になってきたのではないかと思う。世界的にジェンダーの多様性が重視されていて、英語でもheやsheといった性別を限定する人称代名詞をやめようという流れもあるのだから。

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