6/23(土)

思い返せば、その日は雨だった。私は家に帰りたくなくてだらだらと春日の坂を下っていた。

いくつもの傘とすれ違う。遠くの方の傘を見てどきっとする。でもすぐに違う人だと気付く。

こんな所にあの人がいるはずが無い。

.........忘れ去りたいけど、決して忘れられない、忘れてはいけない人

ふと見覚えのある傘を目にして心臓が跳ねた。無地の藍色の傘。

その下に居るのは、確かにあの人だった。

あの人は確かに私を見ていた。その視線から、私はこれが夢では無いと知った。彼は僅かに傘を持ち上げた。その表情は妙に幼かった。まるで怒られているのに何をしたか分かっていない子供みたいに。

このままだと、彼が無理矢理私の中に入り込んできた、あの感触が溶け出してくる気がして、私は目を逸らした。

彼とすれ違う。

何も感じなかった。可笑しいくらい、悲しく無いことが悲しかった。私の中には、もう、何も、残っていない。

ふっと自分が立ち止まっていることに気付いた。あの人の事を思い出すと前に進めなくなる。前には進まなくちゃいけない。足を引き摺ってでも1日1日を生きていくために、あの人のことは思い出さないようにしていた。そんな風にしているうちにだんだんその記憶すら薄れていった。私はそれでもあの人に、あの人の感覚に拘束され続ける。

そこに想いなんて、もう、無い。

坂の途中から下の方の交差点を見下ろした。色とりどりの傘が、ぶつかり、すれ違い、舞っていた。世界は美しくて完璧だけど、そこにもう私は居ないらしい。

ふと、彼にはもう二度と会えない気がして、後ろを振り返った。

もう、そこには誰も居なかった。

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