サイレントマイノリティ
おばあちゃんの介護がつらかった。
ネットで愚痴った。
次の日に見るとたくさんの人がいいねを押してくれていた。
その中には男性も女性もいた。猫好きさんも犬好きさんもいた。
右翼の人も左翼の人もいた。
その人の主義主張はどうあれ単純にいいねを押してくれたことが嬉しかった。
愚痴を言うたびにその人達はいいねを押し続けてくれた。
その人たち自身がネットに流す内容には若干辟易しながらも、忌避したりブロックしたりはせずただ単純にその行為に感謝していた。
いいねをもらうたびにかれらの書き込みを見続けているとだんだんわかってきた。
アベが人権がという中にたまに投下されるプライベートなつぶやきがある。
“今日は母のデイサービスの日。”
“父を病院に連れて行った。”
この人達も皆お年寄りを抱え介護が決して他人ごとではないのだということを知った。
極端ではあるが右翼という存在は生活を維持するために必要である国という大きなシステムを支持し、左翼という存在は個人個人の一人一人の権利や幸せを追求するために反政府を訴えている。
…ように、わたしには見えた。
どちらも正しくどちらも極端だ。
たった一つ共通することがある。
年を取るということは他人ごとではない。
そこに差異はない。
「死のように」平等だ。
私の中の右翼左翼という壁が取り払われた一瞬だった。
そうだこの人たちは皆一人一人の個人だ。
人間だ。人なのだ。
何かのかたまり何か特定の言葉によって作られた不可思議な別生物ではない。
絶え間ない日常のつぶやきと絶え間ない日常のいいねが私の壁を破壊した。
アクセスすること。
あきらめないこと。
個を保つために自分の考えと呼べるものを持つこと。
柔軟性を保ちながら核を見失わないこと。
反対意見に対して背中を向けないこと。
誰かの犠牲に対して目をつぶらないこと。
声をあげるべき時にあげること。
歴史が教えることを常に考え続けること。
もしあの時私が条件反射でこういうの嫌いだからとブロックしていたならどこかで何かが根底から覆されたこの体験はなかっただろう。
だから今はマジョリティ・マイノリティと言う記号すら私の中では意味を持たない。
人は皆全て一人一人違う。
大樹に依り日影を求める者も。
灼熱の砂漠の中に一人立つ者も。
国家という巨大で曖昧な集団を構成する一人一人も全て、皆、違う。
人は皆一人一人全てマイノリティなのだ。
静かなるマイノリティ。
児童書を保護施設や恵まれない子供たちの手の届く場所に置きたいという夢があります。 賛同頂ける方は是非サポートお願いします。