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[小説] 初指導

 連作短編「塾講師日誌」です。気の弱い大学生、多田一輝が塾講師にチャレンジする物語です。今回は、5話『初指導』です。
 話の続編を定期的に更新していきますが、一つひとつの作品は独立しているので、前のエピソードを読んでいなくても、読み進められるようになっています。→アーカイブは、こちらから読めます!!

僕は、塾の教室でひとり授業が始まるのをただ待っていた。
チッチッチッチッ
時計の音だけが聞こえた。緊張のボルテージが極限まで高まる。

ガチャッ
急にドアが開き、スーツの男が入ってくる。
「あれ。多田先生?来るの早いね。」
よく見ると松岡さんだった。面接ぶりだ。
「おはようございます。お久しぶりです。」
少しほっとした。知っている人がいるだけでも心強い。

「今日指導する生徒は何年生ですか?」
僕は、松岡さんに質問した。
「あぁ。小3だよ。算数だから、心配しなくていいよ。」
「どこの範囲を指導したらいいか分かりますか?」
僕は立て続けに質問を始めた。
「前の確認テストを見れば、前回の指導内容が分かるかも。」
そう言うと、松岡さんは本棚の方を指差した。
本棚には、生徒別にファイルがていねいに整理されていた。
「ありがとうございます。」
お礼を言うと、すぐに棚の方に向かった。

「山田だからヤ行だな」
そう言うと、生徒のファイルを探し始めた。今回指導をする生徒は、山田美緒さんだ。
「あったぁ」
小さな声でつぶやくと、ファイルを開いた。

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3桁の足し算を習ったみたいだ。しかも、確認テストは満点。しっかり授業を理解できており、字もきれいだ。筆算もものさしで線を引いていることから、几帳面さがうかがえる。

そうこうしているうちに、刻一刻と指導の時間が近づいていた。

「こんにちは。」
ひとりの女の子が塾に入ってきた。元気そうな女の子だ。後ろで結ばれた髪からはふんわりと甘いシャンプーの匂いが漂ってくる。
おそらくこの子が山田さんだろう。

キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴った。すると、講師たちは一斉に生徒の席へと向かう。
「はじめまして。今日指導をする多田です。よろしく。」
僕は声を震わせながら、自己紹介をした。

授業は、前回の続きから始まった。テキストを確認すると、今日やる範囲は時刻と時間の単元だった。
「今日は、時刻のところをやろうか」
「ねぇ先生。これ見て。」
そう言うと、彼女は自由帳を取り出し、ペラペラとページをめくった。そこには、たくさんのイラストが描かれていた。
「すごいねぇ。これ描いたの?」
「うん。先生の絵も描いてあげるよ。」
すると、筆箱から鉛筆を取り出し、僕の顔をのぞきこむように見つめはじめた。

「いや、授業やろうか。」
「いやだ。前の先生もお絵かきしてたもん。」
彼女の話によると、以前担当していた先生も一緒にお絵描きをしていたらしい。
「分かった。描いた絵みせてよ。」
「いいよ。コロの絵みせてあげる。」
「コロってなに?」
「みおが飼ってるワンちゃん。」
そう言うと、自由帳をめくり、今まで描いた犬の絵を見せてくれた。そこにはまるで画家が描いたような繊細なタッチで描かれていた。子どもが描いたような絵ではない。
「すごいねぇ。こんな絵描けるんだぁ。絵を習っているの?」
「ううん。自分で描いてるよ。」

こんな話をしていると、授業も終わりが近づいていた。
「そろそろ、授業やろうか」
正直、僕は焦っていた。この子の親に指導報告書を書かなければならないのだ。授業をやらず、雑談をしていたなどと書くわけにはいかない。
「いやだぁ。みおは絵描くの。」
まったく聞く耳をもたない。僕は無理やり鉛筆を持たせ、問題を解かせた。
「終わらないと帰れないよ。居残りになるよ。」
僕は心を鬼にして忠告をした。これも仕事なのだ。僕は自分の仕事を全うした。
彼女はしぶしぶ僕の指示に従った。

キーンコーンカーンコーン
授業が終了した。僕は、やり遂げたことに達成感を感じていた。
教室を出ると、すぐに松岡さんが話しかけてきた。
「どうだった?うまくできた。」
「はい。なんとかできました。」
「それは良かった。」
松岡さんも心配していたらしい。かなりほっとした様子だった。

「あ、忘れてた。」
僕は、確認テストを作るのを忘れていた。この塾では授業中に確認テストも作るきまりになっているのだ。
「今日は僕が作るよ。」
リーダー講師の浜野さんだ。浜野さんは、すぐにテキストをコピーして、山田さんに渡してくれた。

山田さんはプリントをもらうと、スラスラと解きはじめた。5分も経たないうちに終わらせ、すぐに塾を出て行った。授業を終えた安堵感に浸っていた。
「指導報告書書いた?」
「すぐ書きます。」
すっかり忘れていた。授業の内容を忘れないうちに書かないと。

ガチャッ
突然、背の高い女の人が塾に入ってきた。その女性はかなり険しい表情をしていた。
「すみません。山田美緒の母です。少しお話よろしいでしょうか?」
「はい。どうされましたか?」
すかさず松岡さんが話を聞きに行く。

5分ほど経ったぐらいだろうか。松岡さんが戻ってきて、僕のところにやってきた。
「多田くん、来週からは別の生徒をもってもらうね。」
「すいません。僕の授業がだめだったのでしょうか?」
「相性が悪かったみたい。まぁ、気にしないで。これからこれから。」
「はい。すいません。」
僕は、いてもたってもいられない気持ちになった。仕事が終わると、誰とも喋らずすぐに塾を出た。

外に出ると大雨が降っていた。僕は悲しみを忘れようとするあまり、自転車を猛スピードでこいで帰った。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

編集後記

初指導は緊張しますよね。僕もかなり緊張しました。僕が初めて担当したのは、かなりやんちゃな少年で、前の先生の言うことしか聞かず、自分の教え方に全くしたがわない。そんな問題児でした。

個別の塾では、講師と生徒との相性が大切になります。明るい講師が良いから変更してほしいと申し出てくるケースやもっとわかりやすい講師に変えてほしいと言われるケースもあります。特に女の子の場合は、男性講師がNGで女性講師限定の場合も多いです。

今回の多田先生は、無理矢理、勉強をさせようとしたことで、生徒から嫌われて、親に「授業が進まなかった」とちくられたのでしょう。親にとってはしっかり勉強を教えてほしいはずだし、生徒は楽しくやりたい。講師はちゃんと教えたい。多田先生はそんなジレンマに陥りました。とくに小学生の場合は、上手に勉強させなければなりません。信頼関係を築きながら、楽しく指導をするのが大切です。

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