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[小説] 新しいバイト先

 五月のある晴れた朝、僕は一人の男とすれ違う。黒のスキニーパンツと水色のシャツを着た端正な顔立ちの男だった。彼は少しはにかんだ笑みを浮かべて、僕に話しかけた。 

「カフェに興味はありませんか?」 
「カフェは好きですけど、なにか?」
「僕はカフェの店長なんです。今バイトを探してて.....」

 男は終始物腰がやわらかく、丁寧な言葉遣いをしていた。なんだか信頼できそうだ。見かけだけで判断するのはよくないが、彼の端正な容姿と相まって品の良い雰囲気が漂っていた。僕がこれまでに出会ってきたどんな大人よりも信頼できる。それは、経験則から直感的に分かることだった。

「どんなカフェなんですか?」
「ブックカフェといって、本がたくさん置いてあるカフェです。お客さんは本を読みながら、コーヒーを飲んだり食事を楽しんだりしますよ」

 ゆっくりとした口調で、カフェについて一つひとつ説明をしてくれた。僕はだんだんと店長さんの話に引き込まれていく。

 しばらく彼の話を聞いてから、僕は入社することに決めた。ここに引っ越してきて、ちょうど働き場所を探していたし、不思議な縁で結ばれている気がした。何か明るい兆しが見えたような気もした。そんなわけで、僕はブックカフェで働くことになった。

 働き始めたのは、六月に入ってからだった。それまでに色々と入社の手続きを済ませたり、家でコーヒー器具を買って、コーヒーを淹れる練習をしたりした。なにしろ、カフェで働くのは初めてなのだ。

 実際に働くまえに下見として、何度かブックカフェにもお邪魔した。店内に入ると、新鮮なコーヒー豆の香りが体を包み込んできた。いかにもコーヒー屋さんといった感じだ。カフェというよりも、老舗の喫茶店のような印象を受けた。

 少し意外だったのは、ブックカフェでは静かに読書を楽しんでいる人ばかりではないということだった。常連客らしき人々は、各々が読んだ本についての雑談をしているし、店員に読んだ本の感想を言っている人もいる。想像以上にアットホームなカフェだった。

 六月二十日、日曜日、早朝。僕は初出勤のため、ブックカフェへと足を運んだ。最寄りの駅からは「Book Cafe」と書かれている古びた看板が見えた。僕はゆっくりと歩いて向かい、店のドアをおもむろに開けた。

「いらっしゃいませ。あぁ、待ってたよ」

 入り口あたりに、中村さんが立っていた。この店の店長である。彼は爽やかな笑顔で僕を迎え入れててくれた。それから、僕は他のバイトスタッフとも挨拶を済ませた。

 バックヤードに荷物を置くと、すぐにエプロン
をつけて、レジの前に立った。お客さんが来るまでの間、中村さんとレジ打ちの練習だ。レジはタブレット端末になっており、商品名をタッチすれば会計ができる優れものだ。僕は基本的なレジ操作を教わり、先輩スタッフにお客さん役をやってもらいレジ打ちの練習をした。

 しばらくすると、一人目のお客さんがやってきた。白髪頭の年配の男性だ。どうやら常連客らしい。僕は少し戸惑っていると、中村さんが耳元で「後ろで見てるから、やってごらん」とささやいた。

「いらっしゃいませ」
「ブラックで」
「えっと、ブラックという商品はないのですが.....」

 僕は頭が真っ白になった。すると、すかさず後ろにいた中村さんがフォローに入る。

「山川さん、こんにちは。コーヒーですね。アイスにしますか?」
「おう。アイスでいいわい」

 店長は会計を済ますと、いつもの優しい口調で慰めてくれた。

「最初だからしょうがない。一つひとつ覚えていこう」

 僕はすっかり落ち込んでいた。接客のバイトは初めてだった。お客さんとの会話がどうも上手くいかない。知らない人と話をするのは苦手なのだ。

 先ほどのお爺さんは、カウンター席の椅子に腰を下ろし、何やら本を読んでいた。僕はそれを眺めていると、視線に気づいた常連のお爺さんは手招きで僕を呼びつけた。

「新人さんかい?」
「はい、そうです。今日から、ここで働くことになりました」
「ところで、兄ちゃんは本は読むかい?」
「本ですか? 気が向いたら、読むくらいです」
「それじゃあ駄目だなぁ。若いんだから、もっと読まんと。」

 どうやら、ここに来るお客さんのねらいは、ただコーヒーを飲んでゆっくり読書をすることではないらしい。彼らの真の目的は、暇を持て余した人々が集まって、自分たちが読んだ本について語り合うことらしい。

 そして、このカフェでの仕事はそういうお客さんの話に耳を傾けることだ。できれば、彼らの好みに合わせて本を薦めることができればいい。とりあえず現時点での僕は、カフェ店員としての最低限のスキルを身につけることで精一杯だった。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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