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超短編小説|羊との密やかな会話

「大人になるのは、簡単よ。子どもを否定して、大人のふりをすればいいのだから」

 羊は私にそう話して聞かせてくれた。私はもっと聞きたくなり、彼女に尋ねたものだ。

「大人になったら、何かが変わるの?」
「セキニンというおもりを背負って、生きていくことになるわ」
「それをどこかに置いてしまえばいいんじゃないの?」

 私は、夢中になって質問をつづけた。それでも、羊は私に付き合ってくれる。いつしか、これが毎日の恒例行事となっていた。

「それは、できない。誰かが悲しむことになるわ」
「大人になっても、子どもにもどることはできるの?」
「いいえ。いちど大人になった者は、子どもにはもどれないのよ」

 私は、学校でのことを誰にも相談できずにいた。友達にだって親にだって……。多くの人間は、そんなことを口にしたら無理だって言うのが目に見えていた。だから、その話題を自分から口にしたりすることはない。

 いつしか私は、羊に悩みを打ち明けるようになっていた。電気を消した暗い部屋で、誰もいない自分の部屋で、聞きたいことをなんでも聞いた。私の話を羊は口をはさまず、静かに聞いてくれた。私が質問を始めると、羊はやさしい口調で諭すように教えてくれる。

「世の中には、大人にならなかった人もいるの?」
「いるわよ。要するに、大人になれなかった人ね。いつまでも子供のままで、ある日とつぜん気が付くの。自分が年を取っていることに」
「それは怖いことなの?」

 私は前のめりになって尋ねると、羊は間髪入れずに話を始めた。

「すごく怖いことよ。大人にならないまま、お婆さんやお爺さんになっていくのだから」

 学校にいると、その話題がひっきりなしに続く。友人たちの関心のあるテーマのひとつだ。なかには、私の事情を尋ねてくる者もいた。だから私は、その話題になるとそっとその場を離れ、誰もいない静かな図書室へ逃げ込むしか手だてがなかった。

 本を読んでいると、そんなことを考えなくていいし、誰かに話しかけられる心配もない。しかし不思議なもので、本を読み終わったあとの私は気持ちは、すこぶる晴れやかになっていて、そのことについて何時間も考えたような不思議な気持ちになっていた。まるで脳みそにしわができて、大人になったと勘違いしているかのようだ。

 友達や家族の目をかいくぐっても、教師の目はかいくぐれなかった。担任は私を見つけるや否や、話題にしたくないあのことについての話を始める。

「山寺、もう決まったのか?」
「いや、まだです。もう少しだけ待ってください」

 私は決断を保留にするので精一杯だった。本当は今のままでずっと時間が過ぎてゆくのが理想的だけれど、そうもいかない。みんなは待ってくれないのだ。私だけが島に取り残され、みんなはそれぞれの船でどこか遠くへ行ってしまうような、そんな虚しさを心の中に抱えていた。

 私は人生の岐路に立っていた。大人に憧れるけれど、今のままでいたい。けれど、そんな気持ちを胸の中にそっとしまい、優柔不断な自分を演じるしか手だてがなかった。

 とにかく自分らしく生きたかった。誰にも邪魔されることなく、自分の描いた島にずっと残っていたかった。やがて過疎化が進み、島に住めなくなったとしても、せめて私ひとりだけもそこに住むだけの精神的なゆとりさえあればいい。16になったばかりの私は、羊とそんな話をした。

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 29になった今、私はふたたび人生の岐路に立っていた。もうすぐ三十路だけれど、大人になれなかった自分を恥じていた。だから布団に入って、寝付けないまま羊との会話を今日も交わした。

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僕は普段、夜に読書をします。寝る前の静寂な時間にページをめくるのは心地良いです。ゆっくり文章を読みます。読書は、作者との対話の時間なのです。ぜひ記事を読んでみてください。

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