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光は亡く燃え堕ちて

 カウンターに六席と、空いた隅に四人掛けのボックスを切っただけの、狭い店だった。随分と古臭い形容をすれば、鰻の寝床のような代物だ。いや、凛々りりも鰻というものがどんなものかは知らなかったが、界隈の飲み屋としては典型的な、狭い間口の割に奥行きがある間取りを皆、そう言うのだった。
 構造の再生コンクリートを剥き出しにした壁面と床。カウンターの天板はおそらく凛々よりも年上で、所々が罅割れ、縁が欠けていた。下手をすると旧時代の遺物かもしれない。それでも水道と電気、空調機が生きていて、独立した洗面台があるだけ、まだ上等な部類だろう。
 店は開けているものの、客はまだ一人きりだった。薄い金髪を無造作に肩口で切り揃え、耳朶にはダイヤモンドとゴールドのチェーンピアスを飾っている。揃いのチャコールグレーのジャケットとスラックス、それに真白いシャツと男装だが、凛々とそう変わらない歳の女だった。
 テーブルには蒸留酒用のショットグラスと、チェイサーを注いでいたタンブラーがひとつづつ。来るなり早々、どちらも干してしまって、今は煙草を吹かしていた。煙草と混ざり物の葉が燃える、甘ったるい紫煙が広がる。市中では碌でもない粗悪品も多いが、匂いからして、意外にもそれなりのものを吸っていた。
「なあ凛々、毎度ながら。この店にゃ燃料アルコールしかないのか? ワインとかビールとか」
「プレミアグレードの高級品を、そんな気軽に求められても」
 いや、カウンターを挟んだ前にいる女を、客と言い張るのはどうだろうか。そう感じる程度には、付き合いとツケの溜まった相手だった。凛々は今更ながら、アイライナーとマスカラを引き、仕上げに薄紅のリップを塗った。チークは入れない。人為的に血色を良く見せない方が、今の装いには合っていると、凛々は考えていた。
 長く伸ばした黒髪と、その髪で織り上げたような漆黒の衣装。要所にフリルとレースを纏い、腰回りはシルエットを整えるため、緩くレースアップのコルセットを巻く。スカートはボリュームを持たせるためにフレアが入っていたが、大胆に太腿の半ばで裾を裁ち下ろした。露出する足許は、柔らかい黒革のサイハイブーツで包んでいる。外出の際には黒の手袋も着けるが、店の仕事は水を扱うので、今は外している。
「ヴィンテージもピンキリとはいえ。愛沙あいさ、下手するとフルボトルの一本で今あるツケを越えるけど」
「上等品はなぁ……、いやそこまではいいんだよ。破産しちまう」
「今は大丈夫そうな口振りだけど。貰っても?」
「ああ。今日こそ潰してやる」
「できるものなら」
 カウンター下は、流し台と冷蔵庫、それに食器棚が据えられている。凛々は冷蔵庫で冷やしていた酒瓶を一本、取り出して天板に置いた。愛沙が特に指定はしなかったので、最初に注いだものと同じ、熟成を経ていない透明シルバーの蒸留酒だった。愛沙はラベルを一瞥し、精悍な顔に、何とも言えない表情を見せる。
「……マール、か。どこも同じように見えてくるが」
「苦手?」
「いや、飲み飽きたクチだよ。こういうのは」
 愛沙は頑として認めないが、凛々が思うに、このタイプの酒は不得手なのだろう。旧時代には消費され尽くした化石燃料に代わって、今や市中のどこででも掃いて余るほど転がっている、植物残渣を処理した燃料用アルコールと、見た目はよく似ていた。
 一方で、凛々は別の意見を持っていた。何より悪酔いしない。愛沙が懐かしむ、昔風の酒に比べれば遙かに純粋な飲み物で、こちらの方が好ましかった。
 先に出した愛沙の分に加え、もう一つショットグラスを取り出す。よく冷やしていたから、ガラスの表面が曇りだした瓶を傾け、グラスに注ぐ。グラスの縁いっぱいまで注ぐのが、いつからか習わしになっていた。簡単に零れそうに見えるのだが、意外とそのようなことはない。当初は何の意図もなく、単純にサービスのためだったが、今では妙に恐れられる。
「全く、恐ろしい飲み方だよな」
「そう? 平等でしょう?」
「……確かに、な。乾杯」
「ええ、乾杯」
 愛沙が片手でグラスを持って、僅かに掲げると、凛々もそれに習う。杯を当てることはしない。そうして、一息に飲み干した。
 清冽でいて鋭い、酒精そのものの純粋な刺激。微かに葡萄の風味が鼻に抜ける。舌先に残る、痺れにも似た後味は、凛々も愛沙もお馴染みの感覚だった。
「……ああ、ったく。これでも呑まないと生きて行かれないのが酒飲みか」
「これでも、燃料の味がする?」
「いや、幾らかマシだな……、前、クソみたいな場所で呑んだときには、欺して燃料アルコールを出しやがった。本当にクソの味がした」
 チェイサーを、と愛沙の求めに応じて、凛々は空いていたタンブラーへ紙パック入りの紅茶を注いだ。香料でレモンの風味が付いているだけだが、これだけで後味が和らぐ。愛沙は注ぎ終わった端から紅茶を飲み干し、一息吐いた。
 凛々は、その傍らで、別のタンブラーを出して紅茶を淹れた。酒には強い方だが、喋っていると喉が渇く。愛沙が空にした方にも、もう一度紅茶を注ぐ。
「それで、そのときは?」
「その場でぶん殴ってやったよ。酒瓶で。どうせ潰すつもりだった」
「良かったの」
「ああ。上に黙って割り物を作っていた。取り決めを何とも思っていないのさ……、だからやられるんだ」
 割り物(クラック)。凛々に嗜むような悪癖はないが、そういえば、愛沙は売る方だったかと思い出した。それらは厳密にはまだ違法薬物の類いだが、界隈ではさほど珍しい話ではなかった。凛々も、他人の畑違いの商売には興味が無かった。
「商売は上々?」
「なんとも。世の中、お前みたいに律儀な連中ばかりなら楽なんだが、まだかね……、今何時だ」
 時刻を見ようとしたのか、愛沙は傍らに置いたハンドバッグから携帯端末を引き出した。それにつられて、凛々も袖口を覆うフリルで隠された手首を返し、左腕に巻いた腕時計の盤面を覗き見た。
「十時、少し過ぎ」
「この時間のはずだが。……おい雪祈ゆき、何をしてるんだ? 黒姫の店、知っているだろう、何もうすぐだ? さっさとしろ帰るぞ」
 凛々としては口を挟みたいこともあったが、電話中の相手には意味がないだろう。店に付けられた渾名は、凛々の服装から来ているのだろうが、店にはちゃんとした名前を付けている。
「こっちの方が通りはいいがね」
 電話を切った愛沙は、ごく当然といった顔でそう告げた。凛々は黙って蒸留酒をショットグラスに注いだ。もちろん、常の通りなみなみと。
 それを二人とも、一気に飲み干してから、愛沙は新しい煙草に火をつけて吹かした。凛々も彼女に倣い、黙って自分の煙草を喫んだ。煙草がフィルターの端近くまで燃え尽き、凛々が灰皿に押しつけて火を消した頃、いやに騒がしい嬌声とともに店のドアが開いた。常より乱雑に引き開けられたドアの呼び鈴が、喧しく響いた。
「いやごめんね愛沙ぁ、おそくなっちゃったぁ」
「……ったく。こっちも押してるんだがな、雪祈」
「いらっしゃいませ。お連れ様は……」
「わたしだけ! 愛沙、黒姫さんってこのひと? おにんぎょうさんみたいだねぇ、かわぃ」
「はい、凛々と申します。どうぞこちらへ」
 愛沙が呼び寄せた相手は、明らかに酔っていた。それが酒か薬物かは知らないが、恐らくは後者だろうと凛々は当たりを付けた。大抵、相手の目を見れば分かることだった。雪祈は一見して人好きのする笑顔を浮かべていたが、榛色の目の奥は、どこか超然とした空虚が垣間見えた。
「よっと、おじゃましまぁす。ゃ、良かったよぉ、さっきちょうどパケ切らしてぇ……」
「レートは覚えてるだろうな? 無茶言いやがって」
「もちろん。いつものクラック、数もね。ああ、パイプあったらそれもひとつ」
 小柄な雪祈は、カウンターの椅子へ座るのも一苦労のようだったが、どこに持っていたのか、分厚い紙幣の束を取り出して愛沙に手渡した。受け取った側の愛沙がビニールの包みと、掌ほどのガラス製のパイプを雪祈に渡すと、愛沙は紙幣の枚数を数え始めた。
「ねぇ、黒姫さん。キツいのはある? オーバープルーフの」
「ええ。七五度のスピリッツがありますが、そちらで宜しければ」
 いいねぇ、と雪祈は笑った。それをボトルで買い切るという話だったから、凛々は遠慮無く、これも冷蔵庫に寝かせていた七五〇ミリリットル入りの酒瓶を一本、引き出した。凛々好みの、無熟成のシルバースピリッツ。雪祈が値段を聞いてきたから、凛々が応えると、彼女は平然と酒代を先払いした。プレミアとは行かないが、度数も相まってそれなりに高い酒だから、金になるのは幸いだった。凛々が欲していた、贔屓のドレスメーカーの新作が、一着程度は買えるだろう。
「愛沙にも回してよ。もちろん黒姫さんも」
「ありがとうございます。では」
 単に薬の影響で気が大きくなっているのか、雪祈は豪勢なことを言い出した。
 新しい酒には新しい器を。凛々は予め冷やしておいたショットグラスをみっつ取り出して、そこにスピリッツをいつも通り注ぎ入れた。張り詰めたスピリッツの水面に視線を落としながら、雪祈は不意に呟いた。

「いつの世も、人間は変わらずアルコールが必要なわけで。黒姫さん、うちも酒はいろいろ扱うけど。ひとつ買わない?」

(つづく)



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