Existence
命尽きるまで天使が途切れることなく詠う旋律の意味を、正確に知る者は誰もいない。
ただ天使殺しの銃弾は理解よりも迅速に破壊を齎し、銃声は旋律を掻き消した。
人形を連想させる、表情の無い相貌が白く砕ける。制御を失った肉体が、焼け焦げ、煤けたコンクリートの瓦礫へと頽れた。
いや、銃声が天使の旋律を圧したのは一瞬だけだった。自動拳銃の短い速射は、巡察隊を先導する天使を一体、撃ち斃しただけだ。
天使は個体の識別が付かない。虚ろな灰白の瞳が十二、一斉に天使殺しが潜むコンクリート柱の残骸へ向けられる。それらは例外なく真白い双翼を背中に負い、石膏像のような白皙の肌と髪を持つ。衣服とも呼べない裾飾りを纏い、手に細身の十字短剣を握っている。
その任務はひとつだけ。怖れも哀しみもなく地上の一切を屠り、奪い尽くす神の傀儡。辛うじて燔祭を生き延びた人々は、既知の言語と全く断絶した旋律に、妖婦の名を与えた。
その旋律が緊張を帯びる。
撃ち斃した天使の後ろに控えていた一体が、逸早く柱の影に潜んだ天使殺しを認識し、地面を蹴って躍進する。詠いながら飛び掛かる様は、旧時代の猛禽と似ていた。
本能的な嘔吐感。それを嫌悪と評するには、些か生々し過ぎた。
とにかく正面から攻撃を受けるのは自殺行為だ。天使が振り翳す慈悲の一撃は、セラミックプレートも圧延鋼板も区別なく貫通する。いわんや人間の骨肉など、空気と大差あるまい。まだしも突き刺す動作を見切る方が、生き延びる可能性はあった。それを熟知する天使殺しは、銃口を天使の胴体に定め、引金を引いて横様に転がった。
「……エンジェルベイン!」
瞬間、夜闇さえ褪せる黒の六翼が、空気を、旋律を、銃声までをも引き裂いた。
風の流れを表すように濡羽の髪が舞う。振り向きもせずに天使を見据える瞳孔、皮肉げに歪んだ口許は、鮮血よりも紅い。
「相変わらず……!」
「ええ、ルシア」
彼女が片手で執るのは、銃器ではなく杖と槍を折衷したような、奇妙な得物だった。人の背丈より幾らか長い黒染めの柄に、青黒く微かに光沢を返す諸刃の穂先。薙刀に近い長大な刃そのものは、辛うじて槍の仕立てを保っていた。
しかしながら、刃の直下で放射状に飾られた金剛石の装飾が、その兵器を槍と断言しえない異形のものとしていた。態々柄と刃を分離してまで設けられた、純粋かつ透明である宝玉の存在は、不合理極まりない構造に映る。
いずれにせよ、兵器そのものの重量に加えて、極端に重心が離れたことによる遠心力が腕にかかるはずだ。そんな武器をこともなげに振り回すルシアの膂力は、天使殺しにはおよそ縁遠い代物だった。
「あなたほどの芸当ができれば、命までベットする気は無いのだけど」
そう嘯いた直後、天使殺しの顔に、身体に、小さく白い欠片が降り注いだ。その破片は、口に入ると塩辛い。
正体は、その不合理な得物で腰から肩まで、逆袈裟に引き裂かれた天使の亡骸だった。銃撃と斬撃をほぼ同時に浴びたそれは、空中で五体が砕け散ったらしい。
黒く煤けた瓦礫の代わりに、汚れのない真っ白な塩を踏みつけ、立ち上がる。分厚い靴底が僅かに伝える、欠片の砕ける感触など構う暇もない。
天使殺しの頭上を飛び越していったルシアは、吶喊の勢いをそのままに、天使の一体を袈裟懸けに両断していた。持ち主諸共叩き切られた十字短剣の残骸が、空中まで跳ね上がる。人間には折るどころか、切り結ぶことも容易ではない業物なのだが。
旋律の不安定な揺らぎは、天使の動揺を物語るのだろうか。弾倉に残った銃弾を撃ち尽くすつもりで、天使殺しは引金に指を掛けた。長物の射程を避けようとする天使を優先して狙う。
接近戦を避け、天使殺しを狙うのならルシアの包囲は薄くなる。敢えて白兵を挑むような相手ならば、彼女は喜んで始末するだろう。
天使殺しが薬室に装填した一発を残して撃ち尽くした頃には、巡察隊を構成していた七体の天使は、精巧ながら物言わぬ塩の塊に成り果てた。
風の音すらしない静寂が、天使の旋律に変わって空間を支配する。素早く弾倉を替え、天使殺しは聴覚を研ぎ澄ます。
有機物の類いが悉く炭化するまで灼き尽くされ、土壌に塩類が染みついた、かつて街だった亡骸。崩れた瓦礫で生じた高低差が視線を遮り、視界は意外なほどに効かない。
猫の額ほどに過ぎない、人類に僅かな安寧を保障する都市と、高精度の音源標定による位置探査以外に、地形把握すら儘ならない天使の領域。それを分かつ無人地帯に、スカベンジャーとなる昆虫や小動物、その餌になる死骸や植物の類いはほとんど存在しなかった。
不気味なまでの静寂は、そのせいだ。朽ち果てて錆び付いた金属の疎林、灼かれて脆く砕ける瓦礫の丘で、動くものがあるとすれば大方、敵であろう。
「エンジェルベイン」
大立ち回りを披露したルシアが、得物を片手に天使殺しの元まで戻ってくる。戦闘前に降ろした背嚢を拾いに来たらしい。彼女は戦闘を切り抜けた安堵よりも、再度の襲撃を警戒する緊張感に強張った表情で、声を潜めた。
遠くから聞こえるような音を出すべきではない。無人地帯の悍ましいほどの静寂は、常に旋律を詠い続ける天使の察知には有利な要素だが、それは敵方にも同様の条件だからだ。
戦闘によって生じた騒音で、他の天使に位置が暴露した可能性は捨てきれない。迅速に移動すべきだろうと、天使殺しは考えた。
「行きましょう、長居は気が進まないから」
「待って。その前に、ひとつ」
「ルシア?」
「……前の丘、極力頭は出さないで」
前方の障害は、丘というより瓦礫の小山なのだが、視線を遮るものには違いあるまい。瓦礫の稜線から姿を晒さないよう、天使殺しは姿勢を低くして向かうを伺った。
稜線の向こうでルシアが何を恐れたのか、天使殺しの目にもすぐ理解できた。暗い灰色の周辺と比べて、不自然に白い真円の区画がある。その中央で、まるで彫像のように一体の天使が佇立していた。
白と白。輪郭の大半は背景と紛れてしまっているが、陽光の作る影が代わりに輪郭を描き出す。肩から腰まで連なる、三対六枚の長大な翼。その翼と比較すると、他の天使とさほど変わらないように見える体躯は、折れそうに細い。
双眼鏡と共に左腰のポーチに収めた音響測定具を引き抜き、表示面を改める。聴覚では捉えられなかった旋律が、僅かながら特徴的な反応として見受けられた。あれは死体ではなく、生きているのだ。
それを天使殺しが認識した瞬間に、測定具のメーターが最大まで振り切れた。今や旋律が鼓膜を圧するのみならず、旋律が言葉となって理解できる。
「全てを失って、ようやく蒙昧な貴女にも理解出来ましたか、サタン? 我々を創り出した御方は、創るも壊すも自在なのだという摂理を」
「まさか。……仮に全てが、神の為すままならば。全てが摂理の通りというのなら。アブディエル、私の存在をどう解釈すると?」
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本作はむつぎはじめ氏が主催する、【むつぎ大賞2023】参加作品です。対戦よろしくお願いします。
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